Q
志賀さんは、文豪・志賀直哉の甥御さんだそうですが、お父様は建築家で、茶の湯や生け花にも造詣の深い方
だったとお聞きしています。どのような方でしたか。
A
父(直三)は、お花は京都の西川一草亭に学び、その後自分で生け花の流儀を立てました。その時、伯父の志賀
直哉が、「お前のは自己流だから慈光流でいいだろう」と言ったそうです。それだと面白くないと「慈艸流」と
いう名前をつけていました。
茶の湯は宗偏流で、茶道には料理が欠かせない。それで料理も懐石を研究して、自分で調理もし文章を書いた
りしていました。
六十九歳で亡くなりましたが、本職は建築家です。慶応の予科に入学してからマサチューセッツ工科大学に留
学し、そこからケンブリッジ大学に転学し正13年に関東大震災で帰国しました。
Q
志賀さんご自身、お父様や伯父様から影響をお受けになりましたか。
A
この頃、若い人によく話すことは、大先輩というか、人生経験のある人たちの話を聴く、ないしはそばにいるだ
けで非常に勉強になるということです。
たとえば、祖父や伯父の家へ遊びに行くと、社会で様々な仕事をしている方たちが来ておられたりします。昔
は和室が多く、それに大家族制がまだ残って今したから、お食事やお茶の時も小学生だろうが中学生だろうが、
お客と一緒に食べるんですよ。
当時熱海に住んでいた伯父直哉の家へ行くと、谷崎潤一郎先生などが来ていて、高校の時でしたが、僕はずっ
と伯父のそばで話を聴いていたりしていました。
父は建築でも茶の湯でも多少知られていたので、新聞記者や文士の方がよく来られるし、僕なんか長男だから
自然に呼ばれてそばで聞いていました。
そこで何を話しているかというと、美術の話だとか、歌舞伎の話、茶の湯や書道、太宰治がどうしたとか、い
わゆる文化的で趣味的な話で、どうして大人は、高校や大学で学ぶ知識とは別のこれだけ豊かな教養を
持てるのだろう、どういうところで勉強するのだ
ろうと思っていました。僕にとってそれは原点みたいなものになっていますね。
Q
そういうところから自然に真実を見る精神が鍛えられ、今の志賀さんの人格が育ったんですね。
A
僕の原点はもう一つあってね。母方の祖父は国際オリンピックの委員をしていたので、昭和15年のオリンピッ
クを日本に誘致しようと、イタリアに行ってムッソリーニに会ったりして活躍した人で、しょっちゅう外国へ
行っていたわけです。その祖父の家でも、戦時中でしたから来客を交えていつもその時の世界の問題なんかにつ
いて話しているんです。
そんな話を聞いていると、基本的に皆が戦争や陸軍のやり方に反対しているのが子ども心にもわかる。志賀直
哉なども学習院で多くの人脈がありますから、そちらの方からも戦争が激しくなるにつれて様々な新聞には出な
い秘密情報、つまり、この戦争は負ける、これはどこかで手を打って講和条約に持ち込まなければならないと、
皇族や重臣たちの間で囁かれている、といったことが耳に入ったことを直哉が日記にも書いてます。だから僕は
戦争中といえども日本が勝つとは必ずしも思っていなかったですね。
それと、僕は小・中学校は羽仁もと子さんが主宰された「自由学園」でしたが、当時としては非常にリベラル
な学校で、戦争には基本的に中立の立場で、とうとう戦争中も「自由」という名前を捨てなかった。普通なら
いっぺんで睨まれるんですが、高松宮や文部大臣を招待して講演をしてもらったり、要領もよかったと思いま
す。
もと子先生の婿の羽仁五郎さん、この人はマルクス歴史学者で、治安維持法で戦前は捕まったこともありまし
た。その頃は自由学園で教えていました。
学園では五郎先生が5、6年生の子どもを相手に、近代日本の洋学というか、明治維新に至る頃の、封建制の中
から目覚めて世界に目を開いた人たち、高野長英とか、佐藤信渕、福沢諭吉や、『解体新書』の話など、シリー
ズでずっと話してくれたんです。それが僕の思想的な原点となり、歴史を勉強しようと思ったわけです。戦後に
なって、今までの歴史観がひっくり返るような本がどんどん出た。だから僕は大学でも歴史を専攻しました。
Q
現在「たくみ」の経営者でいらっしゃいますが、どういうことでこの道に進まれたのですか。
A
歴史を勉強しましたが、それと同時に美術が好きでしたしね。
昔の方は若い人も視野に入れて話す。若い人がいると話が弾む。若い人を育てるということにそれなりの思い
があった。特に芸術家や民芸運動に関係した方にはそういったものがあって、濱田庄司さんや柳宗悦さんもそう
でした。そういう先生方は、若い人がいても話のレベルを落とさない。その時意味はわからなくても、自然に堆
積され、後になってそれが整理されて自分の肥やしになる。社会的経験の中で、戦前からいろんな政治的な話を
聞くのが好きだったから、今でも民族問題や歴史に対する関心が強いし、銀座でこういった仕事をやっているの
は、僕の関心の延長線上にあるからなんです。
Q
「たくみ」はどのようにして始まったのですか。
A
今の銀座の「たくみ」は、昭和8年、柳宗悦、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、吉田璋也たちによって設立さ
れ、今日に至っています。それに梅原龍三郎、志賀直哉も協賛し、開店の趣意書に名を連ねています。日本民藝
協会もその半年あとに発足し、「たくみ」と共同して高島屋で、デパートとしては最大
規模の150坪以上の会場を使って、全国から集めた民芸品の展示即売会をやりました。その後も各地の手仕事
の展覧会を毎年のように開催してきました。
現在のこの場所にビルを建てたのは昭和48年ですが、それまでは今のリクルートのビルの地下駐車場から出
たところが「たくみ」だったんです。僕が大学を出て、昭和30年に「たくみ」に入り、いつの間にか50年以
上たちました。
お客では、劇団民芸の宇野重吉さんが溜まり場にしていたこともあり、山田五十鈴さんが新橋演舞場から舞台
衣装のまま首にタオルを巻いてお見えになったり、外国人のお客さんの多い時代もありました。
Q
最後に、志賀さんにとって銀座はどういうところですか。また今後、銀座がしなければならないのはどんなこと
ですか。
A
銀座が日本の代表的生活文化をもし唱えるとすれば、それが確かな職人さんの手によって作られるというこ
とですよね。まさに東哉さんの先代(編集部注・銀座15番街第三代会長・山田隼生氏)が唱えた「職商
人」というのが、銀座15番街の理念だと
思います。
品物の良し悪しは工場まで行ってみなければわからないが、それがわかるベテランバイヤーが育たなく
なってきました。売れ筋をいかに安く仕入れるかという駆け引きだけでやっているから、地方の熟練工や職
人さんが減ってきている。伝統文化がほとんど保護されず、12〜13年前に僕が民藝協会の調査で確認し
たら、職種もひと頃の半分に減っており、現在ではさらに減っているでしょうね。今後は、日本の手仕事の
文化というものを保存・継承、そして再生するのが私たちの使命だと思っています。
素材にしても氏・素性の確かなもの、自信を持って世界に発信することができるものを扱っているのは日
本では銀座と京都ですかね。京都は国際的に認められているけれど、銀座もこれからは大いに発言していっ
ていいだろうと思います。外国からいろんなブランドが入ってきて競争も激しいけれど、それが一つの刺激
になって切磋琢磨していければいいですね。
また、京都や銀座を散策することで学ぶものがありますね。京都の
「雅」、銀座では江戸の「粋」など、ヨーロッパにない概念です。生活文化の素晴らしい面をさりげなく見
せながら、それが世界のトップであるという、そういった粋の精神というのが必要だろうと思います。「い
き」というのは庶民の文化のエッセンスだと思います。
商品に対する豊富な知識や扱い方を知っていて、お客様とコミュニケーションをする、それが専門店で
す。結局のところ、自分で地方にも行き、素材がわかる訓練というか、自分で使ってみて、経験でもわかっ
ているお店。それができているお店が銀座15番街のお店でしょうね。扱っている品目は違ってもその理念
は同じだと思う。
それと、銀座というのは、ヨーロッパにもあるけれど、ある意味では「職人の街」だということをもっと
言わないといけませんね。
(取
材・渡辺 利子)
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