●現在に至る個人史と思い
出に残る出来事をお聞かせください。
幼稚園から高校までインターナショナルスクールに通いました。そこは英語での教育なので、日本の教育と内
容が同じでも、英語での教育です。そのため、日本語になると専門用語がわからなくなるなどの問題があり、進
学は上智か国際基督教大学しかなかったので、上智の比較文学部(現在は国際学部)に入りました。
そのため友人や生活習慣も海外の方が多く、日本にいながら西洋文化の中で育った分、日本人らしい経験をあ
まりしませんでした。
卒業後は自動車販売にしばらく従事し、ベンチャー企業立ち上げに参画、一段落したところでフランスに留学
し、大学院で経営学修士(MBA)を取得しました。
子どもの頃、姉と私の誕生日には食事に連れて行ってもらうのが恒例になっていました。その日は横浜の自宅か
ら母と姉の三人で銀座に来て、当時は外堀通りに会社がありましたので、「ウエスト」で祖父(創業者・平山義
次)や父(二代目・平山春夫)と待ち合わせ、家族で揃って食事をしました。印象に強いのは、祖父が肉好で、
今は日本橋にしかありませんが、よく銀座の「紅花」で鉄板焼きを食べたことですね。もう少し大きくなってか
らは、「三笠会館」でイタリアンだったりフレンチだったりですが、普段は仕事が忙しい父たちと家では過ごせ
ないので、特別なイベントとして思い出に残っています。
食べることが好きだったせいか、子どもの頃からコックさんになりたくて、中学を卒業したら料理学校へ行く
つもりが、とにかく大学だけは卒業してくれと親に反対されまして。でも、卒業後はまったく違う道に進みまし
た。いつか余裕ができたら料理人は無理でも、飲食店を経営してみたいという夢はありますね。
●どうして今の道に進まれたのですか。
もともと起業に興味があったので、帰国後はITベンチャーに入り、しばらくそこで勉強していたところ、父
が五十九歳で他界しまして。
当時は当社に入る気はありませんでした。五十年以上たった会社を継ぐより、新しい事業を始めたかったので
す。しかし父の死はあまりにも突然で、私の方もまだ事業の準備が出来ていない状態にありまして、結局入社を
決意しました。それが二〇〇六年、三十歳の時です。
ただ、入社したものの不動産の経験は全くなく、しばらくは見習いです。入社二年目でリーマンショックがき
て、一気に経済がおかしくなり始めたのですね。父は他界する前から会長職に退いていて、その頃は生え抜きの
元社員が社長を勤めていました。父の他界後も経営を任せていましたが、景気のいい時は問題ないのですが、景
気が悪くなると数字も悪くなってきます。私の考えでは、売り上げや利益は無理して作るものではない、景気が
悪ければ悪いで受け止めるしかないのですが、それを当時のオーナーではない社長にお願いするのは難しく、少
し時期尚早とは思いましたが、五年前から私が社長職に就いて現在に至っています。
●
会社を継がれたこと、希望の職種と違うことに抵抗はありましたか。
それまでは外でやりたいようにやらせてもらっていました。
その頃はようやく色んな知識もでき、起業の準備も進めて、人間関係も構築されつつ
あり、これからというとこ
ろで父が他界してしまい、ここまできて断念かという思いと、自分のやりたいことが最後までできなくなり、不
完全燃焼という無念さは正直ありました。
当初は不動産の知識は全くなく、この業界を見て、ずいぶん古い体質の業界であるのにびっくりしました。
不動産業も専門知識は必要ですが、それは勉強することで得られますし、本にはない実体的な問題は社員と話
す
ことで学べたので、そんなに躊躇はなかったですね。自分の頭の枠組みの中に情報を全部落とし込み、それが整
理できた段階で、ああ、こういうことなのだ、とすぐに思えるようになりました。それに大学院で経営の一通り
のことは勉強していて、会社の経理、人事、営業、戦略面でもある程度のベースは持っていましたので、そこは
スムーズに入っていけたかな、と。
本来、父も私もそうなのですが、不動産屋というのが嫌いなのです(笑)。不動産屋というイメージの中に、
知り得た情報や何か商機が発生すると、取りあえず取り分を取ろうとするのがあって。お金というのは何か価値
を
作って、その対価として貰うものなのに、そこに介在しただけで対価を要求する。不動産仲介の取引があると、
じゃあ、自分も入れてよ、みたいな部分があって未だに嫌いなところです。
● どんな経営を目指されていますか。
会社の規模が大きくなってもやっていることが同じなら、結局は不動産屋であって、現代の企業というものか
らはかけ離れていました。父の代からきちんとした企業にするため改革を進め、その思いを込めて十年前に個人
商店っぽい社名、「平山企画」から現在の「スペーストラスト」に変更したのです。
私もその方向を引き継ぎ、企業として役割分担をしっかり持たせた組織作りを進めたり、個人的能力に依存し
ない仕組み作りをしたりしとります。
メリット、デメリット両方ありますが、ある程度人材の出入りや、世の中が変化しても会社の体をなして商売
し ていけるのかなと。もちろん未だに優秀な社員のおかげで会社が回っているのも事実ですけどね。
不動産の中で一番お金が動くのはやはり売買で、一つの取引で多額の手数料が発生するのでウマミが大きいの
で
すが、私はあまり好きではありません。会社として売買の方に走ってしまうと、ビルのオーナー様からビルをお
預かりして管理するという地味ではありますが当社の本業が疎かになってしまいます。当社はテナントさんや
オーナーさんに怒られながら、汗をかき、地味な作業を繰り返していくことで何とかうまくビルを管理していく
ことを続けていきます。たまに売買があれば、天から降ってきたお金だね!って(笑)。
社長に就任して五年、今は会社の組織や、仕組み、風土等の根本的な部分の強化に専念しています。それがあ
る 程度実現したら、また違った新たなことにもチャレンジしていきたいなと思っています。
●
お仕事をする上で、原動力となるのは何ですか。
社長をやっている以上は責任を持って会社を運営しなければなりません。お客様への責任だけでなく、会社に
は百名以上の社員と出向という形で相当数の方々に働いてもらっていますし、それぞれに家族もいます。私には
それらすべてに責任があるからです。
五十年の歴史から。市場で信頼を得ているという面もありますが、その分古い文化が根付いているのですね。
文化というのはいい面もあるが悪い面もあります。そこを改善・改革してよりよい会社にすることで、お客様に
もっと満足していただき、社員にとっても働き甲斐のある会社にしていくことで責任を全うでき、それが自己実
現にも繋がり、満足できるのかなと考えています。
●一日のスケジュールと家族サービスについてお聞かせくださ
い。
夜は帰りが遅いので、朝は少し早めに起きて、必ず子どもと遊んで、妻とも会話してから出社します。
昼夜を問わずお客様とご一緒させていただくことも多く、銀実会(銀座で店舗・会社を営む若手経営者を中心
に活動する会)やライオンズクラブにも入っているので、日中はそのお手伝いだとか会合だとか、社会貢献やお
付き合いもけっこうあります。
夜はいちばん大切なお客様と過ごす時間ですが、社員や業者とのコミュニケーショ
ンや懇親もあり、なかなか 子どもと遊べませんね。
でも、住まいが近いので、逆に妻から「今博品館で遊んでいる」とか連絡が入っ
て、時間がある時は、「じゃ
あ銀座で食事を」ということも月に一回、多ければ二、三回あります。ただ、子どもに合わせるので、今日はそ
ういう気分じゃないのだけどなあ、と思っても、「お鮨が食べたいの」って言われると、「そっかあ、じゃあお
鮨にしよう」ということになって(笑)。
週末は、会社がらみのイベントや町会等のお手伝いなどがなければ、必ず家族と過ごします。子どもはまだ幼
稚園児ですが、もうこんなに大きくなったんだ、でもこの成長を見逃したら後悔するだろうなと思って見ていま
す。どんな人間になるのか、楽しみでもあります。
●銀座とはどういうところですか。また、これからの銀座にど
んな期待をお持ちですか。
銀座は日本で一番の繁華街と言えますし、文化の発信地であることは間違いなく、面白いと思うのは、多様性の
ある文化、様々な文化が共存していることですね。
銀座には昔ながらのお店もあり、ヴィトンやグッチなど外国ブランドもあって、たとえば渋谷などは新しいも
のがいっぱいあって若者の街っていうカラーが明確だけど、銀座は色々なものが混じって、その中で共存しあっ
て街として形をなしている。
共存という意味では、昼の繁華街と夜の繁華街が共存しているのも非常に珍しいですね。新宿の歌舞伎町や六
本木の夜のエリアで昼間は誰も遊ばないですが、銀座ではそれが一体となっていて、同じ地域で街の顔が替わっ
て、来られるお客様も替わるのが面白いし、特徴的ですね。
また、夜は非常に上質な洗練された文化が存在しています。当社も夜の商売が入っているビルをたくさんお預
か
りしているので、その洗練された夜の文化を維持発展させて、それをさらに日本中に、世界中に発信していくこ
とができたらいいなと思っています。
(取材・渡辺 利子)
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