●「東哉」の歴史をお聞か
せください。
初代は澤村陶哉といい、父の義父になります。その頃は店舗を持たず、大きなお屋敷などに出入りして商いをしていたそうです。注文していただいた品物をお作りしてお得意先に
納め、次の注文をいただいてくるんです。後に父は『銀座15番街』にも書いていますが、それを『職商人』と
言っていました。
父は幼い頃からいろいろと苦労も多かったようですが、それをバネに頑張り、また才覚もあったようで、祖父
にも認められるようになって、戦前から戦後にかけては、澤村陶哉を名乗って東京で活動するようになっていま
した。昭和30年代の初め頃、父の弟に当たる叔父が、澤村陶哉を名乗るということになり、ちょうど父が小津
安二郎監督の映画を手伝っていた頃で、小津さんの日記にも書かれていますが、そのために東の哉で「東哉」に
変えたわけです。ですから、「東哉」としては父が初代ということになります。
●京都の自社工房で製作された焼き物を、なぜ銀座で販売なさ
るようになったのでしょうか。
父が銀座に店を出したのは22歳の時ですが、祖父がやっていたようにお屋敷出入りだけでは先行き頭打ちに
なる、東京で売る店を自分の力で確保しないといけないと考え、まず銀座(銀座8丁目・現在の「東哉」)に土
地を入手することから始めたんです。なぜ銀座かというと、東京のお客様にお出入りさせていただいたことで、
東京、それも銀座を見て、これはすごい、と思ったようです。その頃は若いし、時代の風を機敏に感じ取ったの
でしょう。
土地の入手もたいへんでしたが、やっとその目途をつけ、あるだけのお金をかき集めて手付けを打ち、あとは祖
父に助けてもらうつもりで京都へ戻ったのですが、祖父には現在のような小売り形態は頭になく、「うちの品物
に値札をつけるのか!」と突っぱねられたんだそうです。それが父の人生最大のピンチで、すぐに東京へ取って
返し、死ぬような思いで何とか開店にこぎ着けたものの、店には陳列の場所のわりには手持ちの品が少なかっ
た。品物が少なければ店の形にならないと思い悩んでいるところへ、京都から品物がドーンと届いたんだそうで
す。それは祖父が送ってくれたという、まるでドラマのような話ですよね。
●お仕事を継がれたいきさつをお話ください。
長男だし、周りも自分自身も、自然と跡を継いでやっていくんだろうな、というのはありましたね。
高校までは同志社でしたが、焼き物だけではなく、デザインのプロセスや考え方を違う角度から勉強したかっ
たので、大学は武蔵野美術大学でインダストリアル・デザインを専攻しました。卒業後は、一年間デンマークの
国立美術大学に留学し、そのまま残って著名な陶芸家の助手になり、サマー・デザインスクールで陶芸科の講師
もしました。
外国に少し住んだことで、外から日本を見ることができ、家業に誇りを持つことができたと思います。
この仕事を始めたのは、留学から帰ってきた昭和47年からで、父からしばらくは、東京で銀座の方々とお付き
合いをして、顔を覚えてもらいなさいと言われ、結婚してから三年間東京にいました。その時、銀実会(銀座で
店舗、会社を営む若手経営者を中心に活動する会)に入れていただきましたが、ご一緒だった人たちは今も顔な
じみで、その後は京都にいることが多くなったので、その経験はとてもよかったと思っています。
●その頃で、心に残る思い出はおありですか。
京都へ帰ることになった時、銀実会の先輩が打ち上げ記念に京都へ行こうと言われ、その話がどんどん大きくなって、銀実会で20名以上が京都旅行する話に発展しました。それ
に京都の仲間が参加して、京都の「冨美代」というお茶屋さんで銀実会の皆さんを接待することになったんです
が、大きな盃に一升瓶でお酒を注いで、「これから東哉の山田君を銀座から京都へお渡しします!」とか言っ
て、「さあ、飲んで!」と(笑)。なんでこんなことになったんかしら(笑)、みたいなことになりましたが、
そんなことをしていただきました。
●銀座にはいついらっしゃるのですか。
専務だった頃は月に三回くらい、一回来ると三、四日いました。銀座の他に、渋谷の東急文化会館や大井町の阪急にも店があって、春は柳祭り、秋は紅葉祭り、それに加えて、高
島屋の東西名匠展(東京と京都の名匠老舗で構成された会)や他の百貨店のこともあり、番頭さんたちもいまし
たが、私が専務だったので、それだけの打ち合わせもありますのでね。今は、東京での店は銀座だけですので、
必要に応じて来ますが、だいたい月一回程度です。
●銀座と京都の違いは何ですか。
栃木県出身のうちの家内は、京都の人は資産家だと言います。京都は第二次世界大戦でほとんど焼けていないため、代々のものをそのまま持っているんです。地価も盆地で狭いか
ら高く、貸家を持っていたりすると、内情はゆっくりです。それに京都の商人は、店もあまり広げず、従業員も
少なめにして、無理をしないですね。それで四百年、五百年と続くんです。でも、銀座では、時には無理をして
も広げていこうというのがあって、会社としては大きくなって、あちこちに支店があっても、景気が厳しくなる
と思い切りよくサッと撤退されたりして……。
バブルが弾けたころ、東京の人たちと話をすると、今は景気がたいへんだから、ゴルフなんてやっている時
じゃあないよ、なんて言われるのですが、京都の人は、これだけ景気が悪くなるとにっちもさっちもいかん、こ
ういう時はごちゃごちゃ動かんとゴルフでも行こか、となる。もちろん気質や考え方の違いもありますが、そう
いう違いがありますね。
●銀座に何をお求めですか。
銀座に店を出すというのは、お客様に引き立てられ、よく売れて成功した店が、優れた技術や職人さんたちも引き連れて出店することだと、父がよく言っていました。昔はそれが
京都だったかも知れないが、銀座は「東の京都」で、今は京都の店も銀座に多くの店を出しています。だから、
京都は日本の京都でいいと思うんですが、銀座には、世界の銀座であってもらいたいですね。ブランドショップ
ができ始めた頃、そのブランドショップのオーナーの奥様方は、銀座で日本のいいお店を探していました。ブランドショップ
はあってもいいけど、それに負けない日本のいいお店が集まっている、ということをアピールできる銀座でなけ
れば。銀座が目指すのはそういうところではないでしょうか。
●ご趣味はどんなことですか。
師匠が他界されたので今はお休みしていますが、二十数年、小唄をやっていました。「柏貞君央」という名前もいただいています。お遊びですが、好きな小唄や地唄、都々逸など
を集めた『えりかへ』という小冊子も友人と共著で出しました。今日は都々逸でいこうか、というと全部都々逸
だけ。そういう遊びが面白いんです。
茶の湯も長くて、京都へ帰って来てからなので、30年以上ご指導いただいています。祖父の頃から武者小路
千家とかかわりがあり、現家元の不徹斎宗匠の下で直門官和会員として続けています。この5月に乱飾り相伝を
許され、十徳を拝受させていただきました。
●ご家族と旅行などなさるのですか。
時間が取れる時は家族や友人たちと日本海へ行って、素潜りをするのが楽しみなんです。若狭湾にある伊根と
いうところで、海岸線沿いに家が並び、一階に舟が引き込めるようになっている。それを舟屋というのですが、
そこに友達と共同でセカンドハウスを持っているんです。伊根に行くと、サザエをとったり、タコを突いたり、
朝はバケツを持って漁師さんがとってきたヒラメやアジを買い、男たちは皆マイ包丁を持っているので、男の料
理をします。奥さんや子供たちは何もしないでよいことになっているんです。
うちは母が九州出身の豪快な人で、家族もみんなお酒が強いせいか、お酒にはおおらかで、高校の頃から私の友
達十数人を呼んで、ご馳走したり、もう時効ですが、お酒を飲ませたり……。母が相談役になって、話を聞いて
くれるのが面白いと言ってよく集まっていました。それが前身になって、皆が集まってお酒が飲めるマンション
でも買おうか、ということになって、それが伊根のセカンドハウスに繋がっていったんです。
私たちのセカンドハウスは、家内が「くろんじはうす」と命名しましたが、なんで「くろんじ」なの、と聞く
と、甚六をひっくり返しただけよ、というんです。仲間はどういう訳か全員長男だったため「甚六会」と言って
いましたので、「じんろく」をひっくり返して「くろんじはうす」という訳です(笑)。
●これからおやりになりたいことはなんですか。
今、京都売舗がある茶わん坂や五条坂の有志たちでネットワークを作り、「やきもの」という切り口で独自のホームページを作ろうとしています。この地域には歴史的に大切な場
所もあれば、有名な芸術家の方々、あるいは問屋さんや小売店、職人さんたちなど、「やきもの」に関わる様々
な人たちが大勢住んでいる文化ゾーンとしての性格があり、地域おこしとして何ができるかということで、そう
いう会を作りました。
先日、京都市のまちづくりセンターからの働きかけがあり、初めて実際の活動として「茶わん坂陶芸ツアー」
をやりましたが、これがたいへん好評を得ました。それで、京都の旅行社から、茶わん坂で焼き物のことを説明
してくれるのであれば、面白いのでやってほしいとか、東京の料理人さんたちのツアーで、食事もできたらマ
ネージしてほしいと、オファーがかかっていますが、そういうことにもお役に立てればと思っています。
また、東哉のホームページに外国語バージョンも作り、京焼の魅力を世界に発信したいですし、機会があれ
ば、東哉の品物を外国で直接見てもらいたい。「男は60から」というのが父の口癖でしたが、私は63歳。未
来を開くのはこれからだと思っています。
(取材・渡辺 利子)
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