Q 仕
事もプライベートも含め、毎日をどのようにお過ごしでしょうか。
A
一日が始まって元気に仕事ができるというのがまず一番いいことですね。この数年、銀座は元気がありません。
銀座の本店から関連の店を回ります。売上が良いところもあれば悪いところもあるので、毎日出来る限り各店の
様子を見ています。そこで知っているお客さまがいらっしゃればご挨拶したり、皆が気がつかないようなことを
アドバイスしたり、社員が仕事をやりやすいような形に持っていくのが私の仕事です。
仕事が終わるのは夜の9時以降で、それから近くのジムで軽く体操をして家に帰ります。家ではお茶を飲んで野
菜サラダを食べる程度にしています。その後ははできるだけ仕事と関係のないものを見たり、読んだりすること
にしているので、少しの時間でも新聞や好きな中国の歴史の本などを読んでいます。寝るのは午前1時を過ぎま
すが、それがリフレッシュになるんです。
私は店に自分のプライベートなことを持ち込まないし、家には仕事のトラブルを持ち込まない。その場で嫌なことは忘れるようにしています。考えてもしかたのないことは時がた
てば自然に何とかなるんじゃないか、と。それでないと、サービス業ですから嫌なことを抱えていると顔に出て
しまいますよ。そうすると社員にも気を使わせるじゃないですか。お客さまに気を使う前に社員がオーナーに気
を使うようではあまりいいとは言えませんね。
Q お忙しい毎日の中で、家族
サービスなどはどうなさっていますか。
A
家族といっても子どもたちは独立しているので今は家内と二人ですが、月に一回は二人で箱根や近場の温泉に行
くようにしていますし、この頃忙しくて一緒に食事をしてないね、という時は食事に行ったりしています。
Q ご
趣味や楽しみになさっていることはおありですか。
A
草花の手入れや畑をやることが好きです。住まいとは別に郊外に小さな庭付きの家があるので、冬場や忙しい時
以外は月に2?3回は行って、その庭で家庭菜園をやっています。車で一時間弱なので、仕事が終わって夜10
時頃から行きます。閑静なところなので音楽もかけず、虫の音を聴きながら本を読んで、明け方2時か3時に寝
て、朝から農作業。夕方に東京に戻って来るんです。
庭には草花や果樹を数本植え、畑ではミョウガやほうれん草、小松菜なども作っています。池には蓮を植え、金魚やメダカを飼っていますので、朝起きると家の掃除から庭の草取
り、畑を整備して木を切って。あれっ!て気がつくと昼ご飯の時間も過ぎているという感じです(笑)。家のペ
ンキ塗りまで自分でやるのでたいへんですが、昼食の後、庭にゴザを敷いて青空を見てガアッと昼寝をして。初
めは家内も一緒に行っていましたが、疲れると言って最近はあまり来ませんが、半分虫のかじった茄子とか曲
がったキュウリを持って帰ると、「ああ、出来たの」って喜んでくれます。楽しいですよ。
Q 先代のことやその跡を継いで今の道に進むきっかけなどをお聞かせくだ
さい。
A 祖父
(中国・浙江省寧波出身の創業者・鄭余生)は1899年(明治32年)に東京に店を持ちました。その頃、中
国から若い人たちが神田・須田町界隈に多いときは一万人くらい留学に来ていました。祖父が神田神保町で留学
生相手に郷里の食べ物を食べさせる食堂をやり、そこで食品や雑貨を売ったのが始まりです。当時は日本の大陸
進出がそれほどではなかったので、中国料理というのはポピュラーではなかったけれど、明治の末期から大正に
なると日本が中国に進出して、貿易商が商売を始め、彼らが向こうでご馳走されたりして中国料理を味わい、
「維新號さん、中国でこんな料理を食べたけれど、お宅でできる?」ということになったようです。三井、三菱
など大手の企業が接待で使うようになり中国料理のイメージがアップし、学生食堂から料理屋としてやっていく
ことになりました。魯迅が随筆で、「学生の頃、神田神保町で維新號という店に行き、自分の故郷のお料理屋さ
んで食べたのと味が非常に似ていた」と書いていますが、そんなこともあって中国料理が徐々に広がっていった
んですね。
父(二代目・鄭勇昌)は日本生まれですが、若い頃中国へ勉学に行き、のちに日本に戻って店を継ぎ、戦後間
もない昭和22年には銀座に店を移しました。
私がこの道に入ったのは留学から戻った昭和49年ですね。その時、会社勤めをやめた兄(鄭東静)は店を手伝い始めていましたが、歴史のある店なので、やるなら二人で頑張っ
て店を発展させようと、店舗を少しずつ広げてきました。30?40年前というのは日本の経済もよくなる時期
だったし、若いので怖いもの知らずもあってあまり心配事もなくやってきました。。
Q ご両親はどん
な方でしたか。またご両親から何を教わりましたか。
A
父は日本生まれ、母は中国生まれです。戦争(第二次世界大戦)が激しくなって自由に行き来ができなくなった
ので、父が兄や姉たちと母を日本に連れて帰りました。兄弟は6人ですが、四男の東静が昭和18年に、末子の
私が終戦の年に日本で生まれました。
戦争中はコックが中国へ帰ると戻って来れなくなり、一人減り二人減りで、困った父が料理が上手な母にコッ
ク代わりを頼んだそうです。「今日のお料理は普段と味が違うな。こんな美味しいのを食べたことがない、誰が
作ったの?」とお客さまから言われ、母は、「コックが作った料理より私が作った方がずっと美味しい」と嬉し
そうに言っていました。
父は時々、「明日、特別なお客さまが来るんだけど、どんな料理を出したらいいかな」と相談していました
ね。お料理が得意な母には職人さんとはまた違う得意料理があり、「あら、だったらこんなお料理があるじゃな
い」とか、「(中国の)田舎だったらこういうのが美味しいわよ」って。父が、「あっ、そうだ、それでいこ
う!」と納得したそうです。
そんな母のおかげで、子どもの頃からずっと中国の本当の美味しい上海料理だとか、父母の郷土の料理を食べて育っているので、料理に関しては学ぶとか学ばないという以前に身
についているので、美味しいものか伝来の味か、など自然にわかります。ありがたいことはそういう環境で育っ
たということです。
Q
百十余年も続いている「維新號」をどのように経営されてきましたか。これからの経営に対してどのようなビ
ジョンをお持ちですか。
A
料理も時代で変化していくものです。世代が違ってくれば趣味や食べ物の味も違ってきます。例えば、我々が伝
えている中国料理もまたこの先変わってくるだろうし、それは仕方ないですし、あまり難しく考えることはない
と思っています。新鮮な材料を使い、お客さまに、美味しかったよ、また来るよ、って言っていただけること、
そういうものがなければ偉そうなことを言っても意味がないのではないかと思っています。
うちはこれまでずっと中国料理専業で百十余年営業を続けてまいりました。これもお客さまの支持があったか
らこそここまで続けてこられました。ですから今後も本業に徹することを大切にしていきたいと思っておりま
す。そういった意味でいつも背水の陣。今後も家業を大事にしていきます。
毎朝、すべての予約帳を見、店を回ってメニューを検討し、この料理だったらお客さまは満足されるだろうな、また明日に繋がるかな、次の月にもお越しいただけるかな、とか。
そういうものを一つ一つ確かめながら商売しております。それがすべてです。もちろん、時代に応じた店の見直
しも大切にしていかなければなりません。
Q
銀座とはどういうところですか。今後の銀座にどんな期待をお持ちですか。
A
50年位前までは、銀座は多くの地元の人たちが家業としてお店を持ち、銀座ならではの商店街を形作っていま
した。、もちろんデパートもありますが、その時代は住宅を兼ねた店が多くあり、人々には共通の認識がありま
した。それに、昔は信用と年数を積んだ商店が集まっておりました。
でも最近は新しい方がたくさん参加されてきました。外国のブランド進出は一段落したようですが、デパート
の再チャレンジはどういう形で銀座の発展に活力を与えるかまだわからないですしね。
銀座にいくら人が集まるからといっても、実際はいろんなものが疲弊していますが、それでも銀座は日本一の商
業地区です。
最近の銀座のお客さまはあまり「もの」にこだわらなくなり、価値観も多様になってきたのも仕方のないこと
かも知れません。そういう中でもっと魅力的な銀座にならないといけません。少し元気が出てきてくれるといい
なと思っています。そのために「銀座15番街」も頑張らなくてはいけないと思っています。
新しい元気のある魅力的な店も進出しています。まだまだ銀座には活力があります。
(取材・渡辺 利子)
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