Q 資生堂に入社なさったいきさつなどお聞かせください。
A
生まれは栃木ですが、幼い頃に東京へ来ております。三歳の時に父が亡くなり、家族も多いうえ、貧しくて高校
へ行く余裕もなく、長男だったため、中卒で働くということで、昭和36年(1961)に資生堂へ入りまし
た。入社の時は母と一緒に来ましたが、帰りに資生堂パーラーで食べた真っ黒なカレーには本当にびっくりしま
した。カルチャーショックでしたね。資生堂パーラーに配属になり、最初の頃はこんな仕事をして失敗したらと
怖かったし、まだ学校を出たてですから、知らないお客さまに頭を下げることがなかなかできなくて。
でも、お陰さまで平成16年(2004)には銀座本店の店長になり、現在はサービス顧問として勤めていま
す。
Q
毎日たくさんお見えになるお客さまと、初めはどのように接するのですか。
A
まずお客さまの特徴をつかむんです。二、三度来られたお客さまには、前回○○を召し上がりましたね、と申し
上げると、「えっ、何で覚えているの」って驚かれる。そこで、「今日はこんなお魚が入っていますよ」と申し
上げることがきっかけになって親しくお話できるようになります。お名前も、昔はコートをお預かりすると、た
いてい胸の内側にネームがありましたし、お話できるようになると、「今度イベントがありましたらお知らせし
ますので」、と申し上げるとお名前が頂けたのですが、今は個人情報の問題があって難しくなりました。
ともかく、お客さまの特徴をいちはやく覚え、自分で名刺を差し上げてお客さまに覚えていただくのです。お
客さまに名指しで呼んでいただき、「あら、鬼海さん、今日いるの」って言っていただけようるなサービスにな
らないといけないのですが、それには人一倍の努力が必要です。
Q
仕事上で大切になさっていること、またそこから得ることはおありですか。
A
大切に思うのは、お客さまに喜んでいただくということですね。そのために、いつも感謝の心でサービスさせて
いただいています。特に、お客さまがお帰りのときに笑顔で、「鬼海さん、今日は本当にありがとう。美味し
かったよ、また来るからね」、って声をかけてくださったり、話を聞いて地方から来店され、美味しくてサービ
スも良かったと言っていただけたりするとやはり嬉しいですね。
それに、お客さまの中には、政財界や芸能界の方をはじめ、人間国宝の方や会社の会長さんなど、あらゆる分
野の方がお見えになります。いろんな方を間近でお顔が見られ、お話ができるのも嬉しいですね。
お客さまの中に俳優の青山良彦さんがいらっしゃるのですが、ある時、佐久間良子さんから「鬼海さん、どう
して青山さんを知っているの」と聞かれたので、三十年以上おつきあいがあることをお話すると、「お父様がた
いへんな方なのよ」って。あとで知ったのですが、お父様は花柳流の人間国宝の方でした。人とのつながりの大
切さを感じる瞬間ですね。
Q
忘れられないご苦労や思い出をお聞かせください。
A
苦労というわけではありませんが、昭和50年(1975)に行われた沖縄海洋博で、資生堂パーラーが住友館
の中にレストランを出店しました。その時、何人かの仲間と一緒に頑張ったことが思い出深く、良い経験になり
ました。
期間中は、各パビリオンにPRして歩くのですが、真夏の沖縄で暑さと闘いながらなのでたいへんでした。各
国の大使が主宰するレセプションを担当しましたが、それぞれ国の言葉も違い、イスラム系の国の人たちは肉が
食べられないなど、それは様々でした。当時の沖縄では返還一年後のため、食材その他の調達が難しく、全ス
タッフが沖縄中を駆け回ったり、本土からの仕込みルートを確保して資生堂パーラーの「味」を再現でき、幸い
皆さまからもご好評を得ることができました。
Q
サービスの仕事の他にどんなことをおやりになりましたか。
A
私は二十二、三歳の頃ですが、一度資生堂パーラーを辞めていた時期があるんですよ。その間、バーテンをやっ
たり、肉屋や、魚河岸でも働きました。結局先輩に、「もう一回戻る気があるか」、と言われて戻ったんです
が、辞めていた間にいろんな技術を身につけました。ですから、牛、豚、鳥をばらすだけでなく魚もさばける
し、自分の包丁も持っています。また、ホテルに行っていた時は、魚が二人前で一尾出るので、お客さまの前で
取り分けることなどもできるわけです。鳥だって自分で買って、包丁を入れてみないと実際に覚えられないし、
自分のものにならないんですよ。シェーカーも自分で振れ、カクテルのレシピもお客さまに説明できます。それ
で調理の河合さんという大先輩は、「分からないことがあったら鬼海に聞け」、と言っていました。
今ではバーテンダーはバーテンダー、ソムリエはソムリエですが、昔はそうでなかったですからね。そうやっ
て、お客さまの前で切ったり盛りつけたりすることで、お客さまと会話もできるんです。今はそういうサービス
はなかなかないので、これからはそういうオーソドックスなものをもう一度見直してもいいかなっていうのもあ
ります。
Q
これまで50年間、仕事一筋に打ち込んでいらしたことを、ご家族はどんなふうにごらんになっていますか。
A
このところは少し孫たちとも過ごせるようになりましたが、土・日・祝日・クリスマスなど、この仕事をしてい
る限り忙しいのはわかっていたし、いちばんの稼ぎ時ですからね。家族とのつきあいは一切なかったです。息子
については、たったの一回も幼稚園や学校の運動会、参観日などの行事に出たことがなかったですね。その頃家内は、「うちは母子家庭よ」、っ
て(笑)。
Q
ご趣味や楽しみになさっていることはおありですか。
A
楽しみは旅行ですね。沖縄博の時のスタ?と一緒に、もう35年になりますが、二年に一度旅行していました。
スタッフは前のパーラー社長になった菊川さん、中山、澤口元調理長、横川元レストラン部長など。今はもう退
職していますが、沖縄博スタッフ全員が役職に就いていました。メンバーとは、シンガポール、タイ、台湾、韓
国、バリ島、マレーシアなど、アジアの各地に行っています。やはり旅行がいちばん仕事と離れられるし、スト
レス解消です。
私は今年64歳になりますが、住まいは山があって緑も豊かな逗子。妻と息子、孫娘二人に愛犬ロッキーと一
緒に暮らしています。14歳になる愛犬は家族の一員で、毎日朝夕と夜、雨が降っても雪が降っても、台風でも
散歩をします。普通一人ではなかなか続きませんが、犬と一緒なら同じように散歩する人とも話せますしね。休
みの日は一、二時間になることもあります。
それと、あとは植木ですかね。採取してきた紅葉の子苗を寄せ植えにしたり、古木をあしらって盆栽にした
り。家内からはあんまりやると置く場所がないから、と言われますが(笑)。
Q
今、「資生堂パーラー」をどのように思っていらっしゃいますか。
A
「ロオジエ」が『東京版ミシュラン』で三つ星を取って、「ファロ資生堂」も一つ取りました。会社にとって誉れなことですが、「資生堂パーラーは星を取らなくて
もいいんだよ」、とおっしゃるお客さまも多いんです。資生堂パーラーが百年続いているのは、昔の伝統と味を
守っているからであって、そこを愛して下さっているんです。
また、この仕事というのは、ある程度時期がくると飽きてくるんですね。そして他の仕事がよく見える。いま
だにうちを辞めた子がまた戻ってくるというのは、うちがいかに温かみがあっていいか、よそへ行ってみてわか
るんです。
現在私はサービス顧問として、古くからのお得意さまがいらした時に、各階のフロアーへ行ってお話をして、
また1階に戻りお客さまをお迎えするという立場です。
そして今の若いスタッフに、少しでも昔の話をして、資生堂パーラーはこれだけの伝統があって、たくさんの
お客さまから愛されているんだよ、と伝えたいんです。それが会社への恩返しだと思っています。
Q
最後に、鬼海さんにとって銀座というのはどんなところですか。
A
50年、その間転勤もありましたが、ずっと銀座を見てきて、日本一の老舗の拠点だと思います。昔も今
も、銀座に出かける時はおしゃれをして出かける。そういうところなんですね。今の銀座は海外ブランドの
店が増えて、昔のような銀座への思いが少なくなっています。半世紀前の銀座に戻れればいいなと考えてい
ます。
昔は、クリスマスには皆がサンタの帽子を被って歩いている姿がありました。そして通りには柳があっ
て、都電が走っていて。出勤時に通る御門通りの柳を見ると、ああ、懐かしいな、と思いますね。でも、資
生堂パーラーだけでなく、銀座の老舗というのは、代が替わっても苦労して維持していくんだと思います
ね。やはり時代を考えると、だんだん厳しくなってきていますが、また日本の経済がよくなって、昔みたい
に「憧れの銀座」として蘇って欲しいですね。
(取材・渡辺 利子)
|