会員インタビュー「銀座 このひと」VOL.8   自分の物差し で


平 塚 彦太郎 
Hiratsuka Hikotarou


銀 座で働く方々にお話を伺う 「銀座 このひと」

第 8回目は、大正3年(1914)創業、江戸指物の老舗「平つか」三代目店主・ 平塚彦太郎さん。初代(平塚玄太郎氏)が工夫し、店主だけが受け継いできたオ リジナルな技法を今も守り、洋風化された現代においても、意匠の良さと機能性 を常に追求し 続けています。

ゲスト写真  銀座にお住まいではありませんが、ご自身の生活はどのようなものですか。

  横浜の自宅から京浜急行で毎朝出勤してきて、夜帰宅の繰り返しです。

  なぜこの仕事に入られたのですか。

  もともと鎌倉に自宅がありましたが、当時の銀座は職住一帯で銀座に住んでおりました。
 子どもの頃は二階が仕事場になっていて、家具を作ったり、額の表装をしたりしていました。祖父(初代・平 塚玄太郎氏)は経師屋で、「職人の中で、経師屋がいちばん格が上」と言ってましたが、今なら何億もする絵と か、大事なものを預り証もなくて預かるわけだから、失敗したらどうしようもないです(笑)。
 だから学校が嫌いだったこともあり、小さい頃から店を継ぐのは当たり前と思っていました。小学校4年生の 時に戦争で疎開、というより鎌倉の家に引っ越して、5年生で終戦になりました。   
 そこで6・3制が始まり、第一期生として中学校を卒業し、深川の都立第三商業高等学校を卒業して、すぐに この仕事に入りました。
 本来なら、ある程度は職人の仕事の修行に行った方が商売する上ではよかったのかもしれないんだけど、ちょ うど大阪の阪急百貨店の売り場に銀座のグループ(東哉・ぜん屋・平野屋など銀座15番街会員)で店を出すこ とになり、昭和32年に大阪に行き、オリンピックの年(昭和39年)まで向こうで一緒にいました。いろんな 業種のものがあり、勉強にはなりました。東哉さんの京焼の店では轆轤や、お茶碗の絵付けをやらせてもらった りね。

ゲスト写真  お店はずっと今のところにあったのですか。

  店ははじめ日本橋人形町にありましたが、関東大震災で焼けたのを機に尾張町、現在の銀座5丁目に進出して来 て、だけどそこも戦災(第2次世界大戦)で焼けちゃって。そこは大きな店だったけど、上物だけ自分のもの だったので、祖父が地主に権利金の交渉をしに行ったら、すごく高いこと言われて、ケンカして帰ってきたと聞 いてます(笑)。
 その後、昭和23年に今のこの場所、8丁目に土地を買って店を建てました。

  初代は経師屋だったと話されていましたが、実際どのような仕事をされていたのですか。何か仕事で残っている ものはありますか。

  うちは出身が経師屋から始まって、祖父が結婚した時点で和家具屋もやるようになりました。祖母は両国の出身 で、趣味の広い人でした。袋物も腕がいい職人に惚れ
て、商売になってしまったと聞いております。自己流ですが独特な書も書き、商売人でしたね。そんなわけで、 戦前は袋物等も置いてありました。
 戦後は和紙類、祝儀袋や木版刷りの便箋や封筒もやっています。
 昭和9年頃、小泉八雲の三十回忌に仏壇を作ることになり、八雲のお孫さんがうちに依頼されました。今はそ の仏壇はありませんが、そのことを記録した「蓮弁」とい
う文章が、松江の小泉八雲記念館に残っています。友達が記念館で見て、銀座尾張町の裏通りの「平塚」って書 いてあるからお宅じゃないの、って教えてくれて。何年か後に松江に行った時に立ち寄って、写真を撮ってきま した。

ゲスト写真  ご家族の中で、いちばん影響を受けたのはどなたですか。

  影響を受けたのは祖母ですね。学校は出てないので、学問をしているわけではないのに、仕事面でもいろんなこ とを知っていましたよ。親父からは特別叱られたということはなかったけど、コツコツ仕事をしている姿や、よ く家具の図面を書いたり、金具に工夫をしたりしていた姿が印象に残っています。

  仕事をする上で大切にしていることや信条などをお聞かせください。

  創業以来、祖父母、父、叔父と代々引き継がれて、「真似されてもしない」がモットーで、これまでオリジナル できましたし、小さな店なので、できるだけ自分のところの特徴を出すようにしています。
 祖母には、「自分の物差しを持ちなさい」と言われていました。最初はちょっとわからない表現だったけれ ど、年を取ってくると、なんていうのかな、たとえばセザンヌやピカソの絵でも、印刷だってきれいはきれいだ けど、本物を見ていると、奥行きとか人物にしても伝わってくるものがあるわけで、自然にこれは本物か偽物か わかるようになってくる。本物を知らなければ、これが本物か偽物かわからないわけだから、物差しにならない (笑)。そういう物差し、本物を見分ける目を持ちなさい、ということになってくる。
 仕事って、裏で積み上げたものがあって、裏を見とかないとよくわからないですね。最初はピカソも、あんな の誰でも描けるわ、っていう感じで、どこがすごいのか疑問
を持っていたけど、高校時代にピカソの映画を見てね。画面の中で白い紙のこちら側にカメラを据え、向こう側 でピカソがマジックで絵を描くんですよ。当時はマジックインキが出たころだったのかな。白い紙にマジックが 滲むから向こうで絵を描いているのがわかるんです。馬の絵を足から描いていく。描き直しも何もしない。馬が パアッとできて、あ、これがデッサンなのかって。天才といわれるピカソのすごさが初めてわかりましたね。ピ カソだって最初は普通の絵を描いているんだけど、そういう意味で、その人の裏をちゃんと見とかないと評価が できない。絵は商売と直接関係ないようだけど、同じことが言えるんですよ。

  絵はお好きなんですか。

  特別にということはないんだけれど、自然に周りの環境もありましたね。終戦後はそれまで貸家にしていた北鎌 倉の家に、祖父母たちと僕たち一家でずっと住んでいました。
  そこの町内に日本画家の前田青邨がいて、小学生だった僕が回覧板を持って行ったりして、何回か青邨が絵 を描いているところを見ているんですよ。庭に面した8畳くらいの仕事部屋いっぱいに、絵を広げて描いていま した。薬研を使って、日本画の顔料を細かくすり潰して粉にしたり、白い瀬戸物の絵の具皿がたくさん置いてあ るし、筆とかがぶら下がっていて。うちは経師屋で糊の刷毛とかいっぱい使ってるので、あ、うちとおんなじ だ、と思って見ていた(笑)。そうしたら青邨の奥さんに、ここで見ていていいよって言われて、その部屋の縁 側から少し離れたところに小さい柵があって、そこから見ていました。大きな日本画を描くときは、最初は小さ な見画を描いて、それを10枚なら10枚というふうに細かく割って、それを拡大して描いていくのとかね。
 また、鎌倉に、個人の家で、版画を集めて展示しているところがあって、あるとき、歌麿とかの本物と偽物を 並べて展示したことがあって、木版画だからその通り彫ってしまえばほとんどわからないんだけれど、研究者と かだと、この絵は初版刷りだとか何回目の刷りだとか、ある程度わかるらしい。平らな木目が出ているとか、偽 物は文字のここが違うとか、そんな先生の説明を聞いたりしていたので、今でも何かのときに、自然にそういう 本物を見分ける目が出てくるんですね。

  仕事以外ではどんなご趣味をお持ちですか。

  高校の時は登山やスキーをしたり。それと映画はよく見てましたねえ。学生割引というのができてね。今でも家 のテレビですが映画はよく見るけど。若い頃は洋画一本やり。このごろは小津安二郎とか木下恵介のとか、監督 別に見るようにしています。あとは寝るだけ(笑)。

 これ までどんなご苦労をさ れましたか。

  こういう時代に入っちゃったんで、苦労は今ですね(笑)。僕の場合は平成8〜9年に、バブルが終わった影響 で大阪と名古屋のデパートを引き上げましたが、そのときがいちばん大変だった。特に「和もの」が残ってい くっていうのは……。

  銀座でお仕事をされる中で、これまで印象に残っていることはありますか。

  私は高校入学と同時に、土日・夏休み・冬休みなどは店を手伝っておりました。その頃は他の店も同じでした が、開店は10時、閉店は夜の11時です。歌舞伎座や映画館が終わってからもうひと稼ぎできました。それか ら横須賀線の新橋駅発最終11時15分に飛び乗って帰りました。その頃はまだ電車も空いていたので、席はほ とんど指定席同様。よく一緒に乗ってこられた横山隆一・泰三先生、小津映画監督とかと同席しましたよ。
 その頃からよくお客様の所へ商品をお届けに行きました。それで気がついたのは、バーのママさんの所はどの 家でも新刊書が山積みになっていたことです。なんの商売でも裏では色々大変だなあと思っておりました。何ご とも裏の努力がなければと思います。
 やっぱり、銀座で商いができることに、先々代に感謝はもちろんですけど、喜びと幸せを感じております。そ して色々な人たちに支えられていることを実感しております。

  今、景気が悪化するなか、銀座の商売のあり方をどうお考えですか。

  昔は個性ある店が並んでいたんですよね。今は問屋が強くなってきたというと叱られるかも知れないが、問屋の 品物を並べるだけの店になってきた。それが淘汰されて、これからは店独自の品揃えが必要ですね。そのために は、たとえば夫婦とか親子でやっていく。夫婦だったら、お昼を抜いてもやっていけますからね。人を使ってる とそうはいかない。たいへんな時代になってきました。

  四代目になる息子さんにどんなことをアドバイスしたいですか。

  これからだんだん商売が難しくなるのは確かなんですが、やっぱり時代に合わせて、最終的には人対人、対 面販売という言い方もできるでしょうが、お客様の好みを聞いて合わせていく、という基本を踏み外さなけ れば生き残っていけると思っています。

写真上から :平塚さんご自身で撮影した「連弁」
        :尾張町「平つか」外観
        :戦災前の「平つか」店内(尾張町)


                                                                                                                                                                    (取材・渡辺 利子)

 
「平つか」ペー ジへ

Copyright (C) 2000-2007 Ginza15st. Inc. All Rights Reserved.