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会員インタビュー「銀座 このひと」VOL.7 からっぽの金
庫から
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佐
藤 幸子
Satou Sachiko
山形県上山温泉「日本の宿 古窯」
副会長・「日本料理 古
窯」 銀座店
会長・日本エッセイストクラブ会員 著書「からっぽの金庫から」「おかみ」他 共著「私を変えた一言」「このパンチこの一言」
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銀
座で働く方々にお話を伺う 「銀座 このひと」
第
7回目は、昭和26年(1951)からっぽの金庫から旅館をスタート、その後
日本のホテル旅館100選で第3位となるまでにに発展させ、昭和57年
(1982)銀座にも日本料理店「古窯」を開店した佐藤幸子さん。多忙な日々
の中、人間味溢れるエッセイを書くエッセイストでもあります。 |
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Q
山形県上山の旅館に嫁がれ、おかみさんになるまでのいきさつなどお聞かせください。
A 私は小さな旅館に生れたのですが、母が一生懸命働くのを見て
いたので旅館は大嫌いでした。ご縁があって嫁いだところも旅館でしたが、主人は次男でサラリーマンだったの
で、二番目なら旅館の仕事をしなくていいと思ったんです。
ところが、義母が「あなたの夫は体が弱いので、もしものことがあったらいけないから、旅館の仕事をやりな
さい」と言って、300坪温泉付きの土地を買ってくれたんです。でも土地だけなので、「実家に行って建物を
建てるものをもらってらっしゃい」と言うんです。(笑)
実家はむかし米俵が廊下いっぱい並んでいたので、余裕があると思って母に頼んだところ、農地解放で土地を
全部取られてお金はないから、家を壊して持って行きなさい、と言われ、しかたがないから200年ほどたつ建
物の一部を壊して持ってきました。それで昭和26年に七部屋作ったのが最初です。
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Q
現在の「日本の宿 古窯」にするまでのご苦労や、忘れられないエピソードがありましたらお聞かせください。
A それから6〜7年コツコツやっているうち、銀行からもお金を
借りられるようになって、ようやく本建築ができるようになったんです。
それで山を切り崩して工事を始めましたが、なんとそこは奈良時代に500年も続いた窯跡だったんです。ロクロを使った初めての須恵器の窯跡で、正倉院の御物にある神器の祝
部土器を作っていたらしいんです。
それで旅館の名前を「古窯」と変えました。そしたら今度はお客様が読めない、書けないでしょ。はじめは評判が悪かったですね。だから音でいこうと電話番号も5454(=
再び来よう来よう)にしました。それと字体(ロゴ)を民芸調にするなど、目で印象付けるため、工夫を重ねて
今のに決めました。
Q 窮地に陥ったことや、苦しかったことはありましたか。
A そのうち周辺の旅館が、湯が少なくてやっていけなくなり、旅
館を買ってくれないかと言ってくるんで、私の代で前後左右の旅館を5軒買い、それらの旅館を渡り廊下でつな
ぎ、営業していました。
その頃、新入社員が次々に辞めていくので、いちばん広い宴会場に社員を集めて話を聞いたら、この旅館ひと
つならいいけど、周りの旅館にもお膳を運ばなくてはならない、たいへんだから辞めさせてください、というわ
け。ここで社員に辞められたらやっていけなくなる。困ったことになったなあ、と思いました。そのあと宴会場
で電気を消して一人で考えました。そしたら、パアッとひらめいたんですね。
以前アメリカのホテルに研修で行ったとき、フランスのルイ十何世時代かと見紛うようなレストランや、グラ
ンドキャニオンでは、丸太でできたホテルのレストランでお食事をして、面白いなあと思ったんで、日本旅館の
中に料理屋を作ろう、と。それまではお客様のところへお食事を運んでいたけど、社員を歩かせるのではなく、
お客様に歩いていただこうというわけです。
コンサルタントの人は、そんなのはまだ日本に一軒もないから危ないですよ、と言われたんだけど、とにかくやるしかなかったの。もう、前は海、後ろは追手ですよ。それで新た
に3億5千万円を借りて日本旅館の中で初めて料理屋方式をやりました。今度は他所の旅館の人達が見に来て、
そんなところまで食事しにいくのかと言われるから、宿泊記念に描いてもらった「らくやき」のお皿を何百枚と
飾って、廊下全部を画廊にしたんです。それを見ながらだと食事に来るまでかなり時間がかかるんだけど、誰も
文句を言いませんでしたね。
Q 花登筐の『細腕繁盛記』に出てくる主人公・加代のモデルだっ
たというのは本当ですか。
A 『細腕繁盛記』の加代さんは、花登筺先生が私を含めて何人
かの実在のおかみを混ぜて、創造された人物です。それに先生が初めてうちへおいでになった時には、『細腕繁
盛記』を書き始めて1〜2か月たっていましたから、私が最初に考えられていたモデルでないことは明らかなん
です。
先生がうちで執筆されるようになって何年か後に、「anan」という雑誌の取材者が来て、先生にお話を聞
いていたんですが、私がたまたまそこを通りかかった時、「この人がモデルです」って言ったのね。その時、私
はまだ30前後でしたから、照れもあって、「先生、ウソばっかり!」って言ったんですよ。先生が言ったから
「anan」にはモデルだと書かれました。でも、後で「僕がモデルだと言ったら、君、それでいいじゃない
か。なんでウソだというんだ」と言われたんですよ。先生はうちのようなちっちゃな旅館をなんとか世に出して
やりたかったんでしょうね。ああ、この方はここまで考えて、モデルだと言ってくれたんだって。後で先生の温
かいお気持ちがよくわかりました。
先生は長い間うちでご執筆なさっていましたので、親戚以上のお付き合いになり、とても印象深く、忘れられ
ない想い出がたくさんあります。
Q お仕事をやめたいと思ったことはありますか。
A 仕事を持っていると、女だからといって許されないし、銀行に
行って泣いたからってお金を借りられるものではないし、きちっとしていないとこの世界では何事も通用しない
ですからね。
まして暖簾はない、常連のお客様もない、資本もない創立者というのはそれはたいへんで、私も仕事をすると家のことは全部お手伝いさんに任せて、子供が寝てから家に帰る生
活でした。
ある日、夜遅くに帰ったら、三面鏡に「お母さん、明日PTAのお金100円、工作のお金150円おねがい
します」って書いたメモが貼ってあったの。それを見たら涙がバアーッと出てきて、三面鏡のメモが8枚にも9
枚にもなって……。母親としてこんなに夢中で働いていていいんだろうかって考えて、仕事をやめたいと思いま
した。だけど、じゃあ、明日からどうするの? 何ができるの? って考えると……。主人は案の定病気になっ
ていましたし、子供を育てるにも、主人の薬を買うにも私が働かなければどうしようもない。だったら生きるよ
り他ないんだと。それで迷いがなくなりました。それからはどんなに短い時間でも、折りあるごとに子供たちを
ぎゅうっと抱きしめてやりました。必死で働く母親の姿を見たら、子供は悪くは育たないだろうと、自分に言い
聞かせました。
その後、二代目(編集部・注 ご子息)が仕事をやるようになったら、主人もとっても元気になりました。
Q
銀座にはどのような思いや期待を持ち、出店なさったのですか。また、銀座店では何を心掛けていらっしゃいますか
A 経営内容の充実だけでなく、銀座は上山温泉のPRのためにも
なる店で、娘が宿の営業所兼日本料理の店として出しましたが、体が弱いせいもあって、私は結婚よりも仕事を
選んだ娘を手伝うために来ています。上山温泉の方は、二代目が私の後、さらに6軒の旅館を買い足して引き継
いでくれていますので、私は上山と東京を行ったり来たりしています。
銀座店は27年前、魯山人ゆかりの星ヶ岡ビル二階を譲り受けて始めることになりましたが、花登筐先生が内
装を手がけてくださったんです。旅館の宴会場のように畳敷きがいいとおっしゃって、障子から襖、献立表まで
直筆で書いてくださいました。ただ、それではもう時流に合わなくなってきたので6年前に椅子席に改装しまし
たが。
今、店内には日本画家の平山郁夫先生や漆芸家・佐藤正巳先生の絵をかけていますが、美大出身の娘が、少な
くとも本物をと集めたものです。
お料理も、郷土の材料にこだわり、最上級の米沢牛を使った和風シチューは、東京Vシュラン(フジテレビの、東京でのグルメ店ベスト3を選ぶ雑誌)で第1位の栄誉を頂きま
したが、この味を出すまで、料理長と一緒に試行錯誤を重ね、やっと作り上げた味なんです。
それに旅館と同じで、ここでもお料理に日本情緒といいますか、季節感や五節句にちなんだ飾りつけ、郷土自慢の素材や、今の季節ならさくらんぼをお出しするなど、気を配り
ますね。
以前、私がお料理に山形の柿の葉を添えて出したところ、上品な奥様が高価なレースのハンカチで、それを大
切そうに拭いていらっしゃるので、どうされましたかとお聞きしたところ、「銀座には高価な宝石は売っていて
も、こんな見事な緑や朱の染め分けなどの柿の葉は売っていないでしょ」とおっしゃるので、キッチンから別の
何枚かを持ってきて差上げましたら、そのハンカチに包んで大切そうに持ち帰られました。嬉しかったですね。
Q 山形と東京を行き来する中、エッセイストとしてのお仕事もさ
れていますが、切り替えはどのようにされていますか。
A エッセイの方は、資本もなく、暖簾もなく、常連のお客もない
新店舗を運営するには、苦しくて苦しくて、何かに書かずにいられなかったからです。旅館を創立、運営してい
くなかで直面した問題や、人との出会いなどメモしていたものをまとめて出版しました。それが帝劇の芝居に
なったり、橋田壽賀子先生のドラマ『女は度胸』になりました。
東京から山形へは2時間半、その間に切り替えます。山形とでは着物が一枚違うくらい温度もかわりますし、山形へ行けば山形に、東京に来れば東京に、気持ちは自然に切り替
わりますね。
Q ご自身の中でどのようなことを大切になさっていますか。
A 大切に思っているものは、転機のとき、いつも「与えられた運
命を生かす」の一言ですね。文句を言わないで、つらいところを自分が通り越してきたから、人の痛さがわかる
し、この言葉が私のお腹の中から出てくるんじゃないんでしょうか。
Q 仕事を持つ女性として、今の若い女性たちにアドバイスをお願
いします。
A 「愚痴よりは建設を、批難よりは理解を、争いよりは友情
を」、ですね。仕事を持つ女性としてどんな場面にも生きます。
たとえば、うちで言えば嫁姑という意識がありません。旅館にとっていちばん怖いのは火災・食中毒・事故ですから、若おかみをしている嫁は同志なんです。だから摩擦もあり
ませんし、ストレスにもならない。それに、生きているうえで体験ほど素晴らしいものはありません。すべて生
きてくる。だからいろんなことを経験してほしいですね。
長い時間を頂き、ありがとうございました。
写真(上)
2008年春 新宿御苑にて 写真(下) お孫さんの結婚式で
(取
材・渡辺 利子)
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