Q
銀座ではどのようにスタートなさったのですか。また、二代目として「ぜん屋」という老舗を背負われたご
苦労はどのようなものでしたか。
A
昭和42年11月に結婚式をすませてここへ来たんですが、本社ビルはもとは仕舞屋があった所で、窓の向
こうに東京駅が見えて、特急ツバメが走っていましたから、ずいぶん変わりましたね。
仕事では、最初は多少の戸惑いはありましたが、古い人に教えてもらって、いろいろ覚えました。ベース
は物を売るということですから、その意味の苦労はあまりありませんでしたが、当時12月はいちばんの繁
忙期で、夜中の2時、3時までずっと鼻緒をすげる残業が続きましたね。今と違って、下駄の表に柾目が
入っているものなどの仕分け作業から、それを磨いて売り物になるまでに相当手がかかったものです。
それでも、僕が銀座へ来てからバブルがはじけるまで、和装業界はずっと上り調子でした。それまでは着
物を着る人も多かったし、呉服屋さんも繁盛していた時代でした。かつて呉服業界の売り上げ規模は2兆円
だったのが、今では4分の1くらいしかない。当然、草履のシェアも少なくなってくる。そこへもってきて
百貨店あたりで安価なものを売るようになって、和装関係は低迷し始めました。
一時的にちょっと間口が伸びても長続きしなくて隙間産業になりつつあります。
それに、職人さんが少なくなってきた上に、昔は柾目の下駄やコルクの草履がありましたが、これらの材
料を手に入れること自体がたいへん難しい時代になってきている。今は手に入れられる限り最良の材料を
使っていますが、いいものを作って売るのは相当厳しい見通しだと思います。それだけに競争相手が新しく
出てきませんし、履物屋さんが年々減ってきているのも当然なことですね。
Q
若い頃の夢は何でしたか。
A
僕は昭和15年生まれ、8人兄弟の6番目です。実父は僕が阪急へ入社する前に亡くなりましたけど、普通
の家庭で貧しくはなかったんですが、8人兄弟って、着る物は上から下がってくる。お正月だけ新しいシャ
ツとパンツと下駄を買ってもらうくらいで、あんまり大きな夢を持てるような時代ではなかったですね。
子供の頃は京都の木屋町に住んでいて、前は高瀬川、後ろは鴨川、裏に大きな墓地や、まだ手つかずの自
然がいっぱいあって、高瀬川で魚を捕ったりして遊んでいました。街には進駐軍もいて、木屋町通りにはよ
く進駐軍の車や立派な車が停まっていて、ガソリンの排ガスの匂いを嗅ぎながら、友達と「こんな大きな車
に乗ろうね」っていうくらいで、それが夢といえば夢やったんですねえ。(笑)
Q
仕事を離れて楽しみになさっていることや、ご趣味はどんなことでしょうか。
A
27歳でこちらへ来ましてから、好きなゴルフもやりましたし、夜の銀座でも遊びましたが、それも仕事が
らみが多くて。純粋にプライベートというと、家族で旅行することぐらいですかね。むしろ川口の家に入っ
て、ここのしきたりだとか、新しい仕事のこととか、銀座というところでの付き合いだとか、それらをこな
していくのが精一杯なところがありましたから、今考えると、プライベートでのことなどあまりなかった気
がします。まあ、跡取りとはそんなもので、そう考えるとつまらない人生ですかねえ。(笑)
Q
忘れられない出来事などありましたら、聞かせてください。
A
「水が変われば」と言いますが、ここへ来たときはすべてが一変しましたからね。周りはキャリアも古い人
たちばかりで、中には一筋縄ではいかない人もいますし、いろいろありました。気が置けない学生時代の友
人もここにはいなくて、ちょっと相談するということもできないのはつらいところですよね。
新しい場所でようやく馴れてきた頃に義父が亡くなりましたので、走っている速度がぎこちなくなって、
余計なことを考える時期があって……。義父は昭和48年5月5日に59歳で亡くなり、一カ月後の6月4
日には3歳の二男を亡くして、いったいどうなってるんかなっていうか、当時はお寺に通いっぱなしでし
た。
義父が亡くなった日は祭日で、通知の連絡もつかなくてたいへんでしたが、東哉の親父さんとかに助けて
いただき、なんとか無事に済みました。
ですから、本来なら義父がするべきお付き合いなどを、若いころから僕がやらせていただいて、義父と同
年齢の東哉さん・めうが屋さん・平つかさん・田屋さんの先代からいろいろ吸収させていただき感謝してい
ます。
Q
関西訛りがおありですが、言葉で違和感などありましたか。
A
銀座というところはやっぱり天下の銀座で、それぞれ皆さんプライドをお持ちですし、当たりはそこそこよ
くても、なかなか考え通りに接してもらえないこともあります。
こちらへ来た時はまだ若かったし、まして僕は関西弁でしたしね。関西弁は現在のようにテレビとかで耳
慣れていないということもあって、案外冷ややかな目で見られたこともありました。40年たって、今はお
おっぴらに関西弁で喋っていますが、若い頃には言葉の使い方が気になった時代もありました。でも、百貨
店に勤めてお客様とは標準語で接していましたから、まあ、なんとかうまくこなしてこれたのではないで
しょうか。
Q
大切になさっていることなどおありですか。また、これからおやりになりたいことはどんなことでしょう
か。
A
僕は、読んだり見たりしたことを何でも書き写すことが好きなんですよ。日常のことや、人から聞いた話、
しゃれた言葉など、アットランダムに書き留めて、それが今ではずいぶんたまっています。これにはきっか
けがありましてね。25〜26年前、誕生日に娘が小さなノートをプレゼントしてくれて、それに書きはじ
めたんです。そのせいか手紙を書くのも好きで、休みの日でも便箋や葉書に書いたりしますね。しょっちゅ
う書いている。葉書や便箋もしゃれたのがあったら買ってきて楽しんでいますよ。
読書は好きですが、「老いてまさに知ならんとして耄これに及ぶ」、その意味は、年を重ねて知恵もつい
てきたころボケにつかまる、と中国古典にありますがその通りで、最近の読書はもっぱら辞書ばかりです。
Q
銀座の老舗として、お父様として、次の世代の息子さんに伝えたいことや、託したいことはどんなことで
しょうか。
A
今年39歳になった長男が、5年ほどゲームソフトを開発する会社に勤めていたんですが、お陰様で跡を継
ぐような形になってくれました。僕も少し前に体を壊したこともあって、徐々に仕事を任せることも多く
なってきました。
ただ、今年は長男が「銀実会」の理事長をやらせていただいて、これはかつて僕もやらせていただいたこ
とがある、銀座の若手の会です。それで銀座のための仕事も増えてきていて、本業をすべてやっていては理
事長の職務もなかなか果たせませんので、それが終わってから任せたいと思っています。もう少し銀座のた
めにも頑張って勉強をして、いずれ学んだことを本業に役立ててくれればと願っています。
父としては自然体です。「どうや」というくらいで、継げとは言わない。自然の流れの中で、逆らってで
きるものではないし、また、易きに流れるのも人間で、口で言うのも大事ですが、まず自分の〈人間力〉を
高めることが大事ですしね。本人も努力しているでしょうが、彼は三代目で、先代の血を引いております
し、そういう意味で自覚もできてきてくれればいいなあ、そして僕らがやってきたことも見てもらえれば
と、期待しています。
Q
今の銀座とはどういうところですか。これからの銀座に、どのような希望や期待をお持ちでしょうか。
A
僕のところは和装小物で、時代的には隅っこに行った業種なんですが、このような古い、昔からやっている
商売が徐々に少なくなってきつつあるんです。一時期、銀座通りに銀行が増えて、午後3時になるとシャッ
ターが閉まるので、こんなことでい
いのかと、問題にする見識も銀座にはあったのですから。
だから、昔から訥々と努力してきた店が、お互いにもっと評価される努力をしなければ……。ほんとうに
良い物を扱っていらっしゃるところほど、生きにくくなっていることも確かです。
ここに住んでいるので、普段はあまり《銀座》を意識しないんですが、他から耳にしたりすると、銀座の
良さには堂々たるものがありますね。それに銀座って案外排他的ではなくて、皆さんを受け入れるところで
す。外国ブランドがどんどん増えて、新しい資本や流れが入って来るのはいいことですし、若い人が増える
のは素晴らしいですよ。昔の呉服屋さんなどは、「これなら銀座を歩いて恥ずかしくありません」と、着物
や帯をすすめたのではないでしょうか。そんな歴史の積み重ねのあるのが銀座だと思います。
それと、関西出身の僕としては、緑が豊かな神戸や芦屋、宝塚などと比べると銀座は少し寂しい。外堀通
りの柳はいいんですが、銀座通りには緑がない。春は桜、秋は紅葉とまではいかなくても、もう少し季節感
が街に出ればいいなあという気がします。銀座も昔は京橋川とか築地川など、わりと川もあったらしいです
が、川があって緑があったらやっぱりすごくいいなあと願っています。
(取材・渡辺 利子)