当時、主人は独身寮の寮長をし
ていて、私が何か持って行くと、昨日まで破れていた障子がきれいに貼ってあるんですよ。あら、誰がやっ
たのって聞くと、主人だったの。へええ、器用だわネ、なんて言ってね(笑)。母が、あんたはだらしない
から結婚したら苦労するよって言ってたけど、結婚したら全然違うのね(笑)。主人はすごい働き者で、も
のごとに対して熱心。それと、親孝行でした自分の親に対しても私の両親に対しても。それには私の両親も
感謝していたと思います。
Q
中国での生活で忘れられないことはどんなことですか。
A
日本にされていた中国の人は可哀想だなあと思いましたね。だけどそれを庇うと私たちがやられちゃうでしょ。
憲兵なんかは自分は経費をもらっているくせに、人力車に乗って駅まで行っても、車夫をひっぱたいてお金を払
わないんですよ。そういういやな光景も見せられました。
それと、私の兄は召集されて兵隊に行き、昭和20年に22歳で南方で戦死しましたが、初めは中国にいたん
です。父が部隊に会いに行った時、部隊長から南方へ行く時に書いた兄の遺書をもらってきたんです。敗戦に
なって、あの頃は、変なものを持っていたら中国兵に密書だと思われて没収されるし、生死は分からないけど、
父と母と三人で開けよう、そしてあとは燃やそうということになったんです。誰か入ってきたら困るので、暗い
電灯の下で読みました。その時のことを思い出すと今でも涙が出ます。
Q
遺書にはどんなことが書いてあったのですか。
A
これまで育ててもらって、親孝行もできず死ぬのは心苦しいけれど、お国のためと思って許してくれって。それ
と、何も言わないで行きましたけど、恋人がいたんです。兄は盃を集めるのが趣味で、それを一つか二つ形見に
渡して欲しい、そして自由になるよう伝えてくれ、と書いてありました。
Q
引き揚げていらして、すぐに結婚なさったのですか。
A
中国からは昭和21年の4月に引き揚げ、その年の6月3日に結婚して勝又の家に来ました。主人の実家に入
り、姑と兄夫婦と姪がいるところへ同居です。父は、兄嫁がいるし、姑は若い頃から働き者で厳しい人だと聞い
て心配しましたが、何も知らないお嬢さんが嫁にきてくれたって、とても庇ってくれました。ほんとうにいい義
母でした。
姑はね、時々野良へ私を引っ張って行くんですよ。でも行くと、自分は一生懸命働くんだけど、私に青空の下で
昼寝してろって言うの。まあ、手伝おうにも役にたたな
帰るときは私がクワや荷物を担いで行くので、兄嫁が、貞ちゃん、たいへんだったろう、って言うんだけど、い
や、寝てましたとも言えなくて(笑)。
Q
その後、銀座でノーブルパールのお店を始められたのですね。
A
主人はちょっと変わった経歴で、高等小学校を出てから横浜の知久商店に小僧として入りましてね。それから猛
勉強して法政大学を卒業したんですよ。そして昭和18年に銀座の飯田高島屋の外商部に入社したんです。
結婚した頃は、よし田の蕎麦屋(7丁目すずらん通り)の前にあったサイセリアというバーの一部を借りて、
進駐軍相手の土産物屋「パンニ」を開いていました。品物は知久商店が回してくれましたが、人は雇えないか
ら、子供が生まれるまで私が店員をやりました。お弁当は持って行ったんですけど、おなかが減ってフラフラ
で、新橋駅の階段が上がれないこともありましたね。結婚から1年後に長女が生まれて、翌々年には次女。子供
が小学校へ上がるまで、私は店へは出ないで育てました。
現在の店は、もとは服部さんという人がワイシャツ屋をやっていて、主人が表の3畳を頼みこんで貸してもら
い、21年の初め頃、パンニに続いて2店目を開店しました。それが「ノーブルパール」の始まりです。
そこで仕事場のため、大森の山王に小さな家を買ってデザイナーを住まわせ、縫い子さんも地方から呼んで。
それが最初の工場です。34〜35年にはその家を建て替え、下は仕事場で、上に私たちが住んでいました。服
部さんから銀座のこの店を買ったのはその頃でしたね。だけど土地を手に入れないといけないと考え、地主を捜
して主人と二人で頼みに行きました。5月の母の日だったので、カーネーションを買って行ったら、子供のいな
いご夫婦だったのでとても喜ばれて、勝又さんだからって売ってく
れたんです。
当時のノーブルパールは2階建てのしもた屋で、2階を仕事場にしていました。見た人から、「屋根にペンペ
ン草が生えている、銀座にそんな店はないよ!」って言われました(笑)。それで昭和48年にこのビルを建て
ました。
Q お店
を運営するにあたって、洋裁はどのようにして身につけられましたか。また、ご主人を支えられたのでしょう
か。
A
伊東衣服研究所という学校があり、そこの製図科に入ったのはいいけれど、まあ難しいんですよ。一年ぐらい
たって、まだ勉強した方がいいかと先生に相談したら、あなたはお店で専門の人を雇う立場の人でしょう、それ
が間違ってるとわかる程度でいいんじゃないの、って言われまして。それでも本科にも入って縫いもやりました
が、私は縫うことはできなくて(笑)。
その頃主人が、イギリスなどから生地のサンプルを取り寄せて、夏物と冬物で年2回くらい、帝国ホテル等で
展示会をやったんです。そこで50〜60軒のお得意様が来て注文してくださるんですが、送り迎えや接待な
ど、あれこれ手伝いました。他にも、洋装店でファッションショーをするというと、私が手伝いに行くんです。
そこの先生と話している間に、色の合わせ方とか、仮縫いのしかた等を自然に覚えていったのです。もっとも、
銀座で商売をやっている人が手伝ってくれるということで、先生の顔も立つのでしょうか。そんなことで、先生
とも親しくなり、いろいろ教えてもらいました。
結局お客様には、一人一人好みに合わせますが、あまり似合わないものは似合わないと言いますね。今は跡を継
いだ次女がやっていますが、もう任せているので、私はなるべく口を出さないでいます。
それと私は会計が好きで、帳簿やお客様の支払い、卸もみんな私がやっていましたから、主人はずいぶん助
かったみたいですよ。手形を切って、その日になって落とせないのがあると私が書き換えてあげたり、半分だけ
落とすが半分は延ばすとか。亡くなった主人も、お金のことはどうなってるのかわからなかったでしょうね。
Q
現在は、銀座で毎日をどのようにお過ごしでしょうか。
A
今は一人になりましたが、娘夫婦が泊まりがけで面倒をみてくれたり、孫が夕食を作って毎日運んでくれてま
す。ここで一人で食事するのはお店が忙しいときくらいです。
私は小学校や女学校の友達が、世田谷や三田に4〜5人いるんですよ。それで友達と近くで待ち合わせて、美
味しいものを食べに行ったりして楽しんでます。銀座はそういうのにはいい所ですよ。
それに、「ライオン」の5階でコーラスをやっています。NHKの6代目の歌のおばさんの片桐先生や、音楽
学校出の人も来ますし、素人ですがみんな上手ですよ。私なんか繰り返しのところでどこだか分からなくなった
り(笑)。娘が、行って声を出してくるだけでいいの、って。でも、だんだん譜面が追えなくなりましたけど
(笑)。
Q ご主
人との忘れられない思い出はどんなことですか。
A
天津で撮った写真のことは忘れられません。引き揚げる前に、ひょっとして別れ別れになるかも知れないから
撮っておこうと、ロシア人がやっている写真屋さんで撮ったんですよ。あれだけは大切に持って帰ってきたんで
す。
あとは、元町のメンバーと一緒に初めてヨーロッパへ行った時。横浜の姉妹都市7カ国を訪問したんですが、
着くとレセプションがあって、女の人は皆和服を着るんです。私も着物は着れるけれど帯が結べなくて、主人
に、ちょっとこれを帯の背に乗せて、と頼んだんです。でも、会場でなんだか帯がパカパカしてへんなんです
よ。そしたら同行の人が、帯がおかしいわよ、って直してくれたんですけど、何と帯枕が逆さまになっていて
(笑)。
Q
最後に、勝又さんにとって今の銀座とはどういうところですか。
A 銀
座も変わってきていますが、私にとって銀座は、帰ってくるとほっとする。タクシーに乗って戻ってきても、新
橋の高架(首都高速道路)をくぐると、ああ帰ってきたなあ、と思います。だって自分の家ですものね。
文中写真
上:昭和26年の家族写真二人のお嬢さんにめぐまれて 中:婚約時代・
天津で撮った思い出の写真 下:「ノーブルパール」50周年とご夫妻の金婚式のパーティの席上で
(取材・渡辺利子)
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