第3回目は、昭和10年(1935)創
業、今や銀座の寿司の代表格として、高級ホテルな
どにも出店し、「江戸前」を披露し続けている老舗「久兵衛」の二代目店主・今田洋
輔さん。初代・今田寿治さんの寿司職人魂を今に伝えて活躍されています。
Q
お生まれや泰明小学校での思い出など聞かせてください。また、銀座で育ったことを、今どのように思っていま
すか。
A
生まれは銀座でないんですよ。昭和20年3月に、疎開していた父の出身地の秋田で生まれました。戦争中、父
は一時銀座の店を閉め、一人東京で日産コンツェルンの、当時は軍事内閣顧問をやっていた鮎川義介さんのお屋
敷でお寿司係として握っていました。その頃、僕が生まれたので、鮎川さんの命名で、義介の「介」の字をいた
だき本名は洋介です。今は字画の関係で「輔」を使っていますが。
終戦で店が再開されると家族も東京へ戻りました。日比谷幼稚園(公園の中)へはよく店の若い衆が自転車で
送ってくたんですが、ライト設計の帝国ホテルの大谷石を横目に通いましたね。
僕は泰明小学校の頃から寿司屋になろうと思っていました。学校から帰ると、家の周りに黒塗りの車が並んで
いました。店の2階が住いで、お客様の背中を通って2階へ上るわけですよ。カウンターの中と表で父母が働い
ており、時々お客様に呼び止められたり、僕に何かくださる方もいて、顔を赤くしながら挨拶したりお礼を言っ
たのを覚えています。
日曜になると家族で近くの洋食屋とか、今はなくなりましたが山和とか、資生堂に連れて行ってくれるんです
よ。子供ながら、「商売をやっているからこうやっておいしいものを食べられるのかな」って感じましたね。だ
から、すごく家業を有難いものと思って育ちました。お客様があって我々の生活が成り立っているという感覚
は、小さい頃から持っていましたので、父の跡を継ぎたいと思ったし、小学校の作文にもそう書きました。
ま、そんなわけで、計画通り公立の中学と商業高校に進み、簿記やそろばんを学び、それから修業に行きまし
た。修業先は神戸の繁盛している店でしたが、父は技術よりも、「仕事でもまれ、他人の釜の飯を食う」という
精神を学ばせる考えで、帰ったら握りは自分が教えてやるという気持ちだったんだと思います。だから僕は大学
へは行っていない。行く時間も必要もなかったし、行きたいとも思わなかった。まず板前として体で覚えること
が最重要なことでした。
父は木挽町の美寿司さんで修業したのが縁で銀座に開店したんです。私は銀座で育って、泰明小学校でも写真
部があり、デパートとか盛り場へ撮影に行くんですが、銀座ってやはり特殊なところなのかナって感じました
ね。全国からみんな銀座へ出たがるけど、じゃあ、銀座へ出たからといってみんなが成功するわけではない。か
えって厳しい面もある。やはりしっかりお客様を持っているとか、いい商品を売るとか、評価されてはじめて成
り立つんですけどね。
Q
「久兵衛」の初代店主のお父様と北大路魯山人の関係は伝説になっていますが、魯山人はどんな人でしたか。何
かエピソードはありますか。
A
僕が知っているのは晩年の十年弱ですね。父と3人で京都や愛媛の松山に旅行したりとか。当時僕は小学五年〜
中学一年くらいでした。難しい場面では歯に衣を着せない人だったらしいですが、旅行中は好好爺という感じで
したね。旅の間、魯山人は毎日ボタンでつけたワイシャツのカラーを取り替えるんですが、僕がつけてあげる
と、「よく気がきくね」と褒めてくださったりね。僕からすれば、子供心にお客様という気持ちがあったからな
んだけど。それと山崎のお住いによく行きました。「庭に行って土筆を取ってらっしゃい」と言われて、竹林や
蓮池のある庭で土筆を摘んで行くと、縁側でその萼を取ってね。その時の写真が残っていますよ。まあ、父が魯
山人と出会ったのも縁でした。日本料理を自分でも作り、本物の味が分かる人だったので、いろんな面で教えら
れることが多かったようです。星ケ岡茶寮を経営した魯山人ですから、
日本料理すべてに詳しく、素材の良さを楽しむのが究極の目的であり、料理の中でいちばん手を加えないのが寿
司だと言うんですね。魯山人が父に言ったのが「手をかけすぎるな」ということで、お寿司のよさを逆に再認識
させられたんですね。いい素材の自然の持ち味をおいしく召し上がっていただく。父が旅行へご一緒したのも、
教えてやろうという先生の愛情を感じたからでしょう。
また、魯山人は窯出しのたびに作品をもってきてくれ、この料理にはこの器を使ったらいい、などとアドバイ
スしてくれたそうで、一時すべて魯山人の器だった。今から思うと夢のような時でした。器は現在も大切に使っ
ておりますよ。
Q
今、「久兵衛」店主として、お店の職人さんたちをどのように指導・教育されているのでしょうか。
A
お客様の銀座への期待は大きいですね。そこを損なわないように、仕入れ、仕込み、切りつけ方など、いろろあ
りますが、僕は5つのことを言っています。「味の安定」「価格が適正であること」「清潔感」「お客様に余分
な気を使わせない」。たとえば、ああ食べろ、こう食べろと言うな、楽しくおいしく食べていただく。そして
「お客様を公平に扱う」。特にカウンターでは常連も一見さんも区別しない、ということが大切だと。
僕はいつも銀座店に出ていますが、この、店にいるということが大切。それがみんなに緊張感を与えている。
いい加減に流されない。僕の主義というのは率先垂範、現場第一主義。親方として、握り方ひとつから指導でき
ないといけないと思っていますね。もっとも、僕がいなくても半日や一日は十分やってくれますが、それが十日
とか頻繁に居なくなると店は変わってしまいます。
Q
英語がお得意と聞きましたが、お仕事でよく使われますか。以前、前米大統領のクリントンさんがお寿司を食べ
に来られた話は有名ですが……。
A
僕のはカウンターで使う英語です。たとえば魚の名前も辞書に載っているようなアカデミックな言い方ではな
く、もっとわかりやすく言ってあげる。たとえば、コハダだったら「about same family
of
sardine」と言った方が早いんです。だから、通訳の説明する寿司と僕たちが説明するのと、ちょっとスタンスが違うんですね。まあ、英語は好きだったので、プライベー
トレッスンを取ったりしますが、時間的に予習・復習ができないので、なかなかボキャブラリーが増えなく
て……(笑)。
クリントンさんはサミットの時に宮沢さんと一緒にみえました。もちろん、魚の名前とかは申しましたが、宮
沢さんは英語がお得意なので話はお二人でなさってましたね。あれはホテルオークラ店でやりましたが、その時
のことが写真といっしょに世界に発信されて、まあ、良い宣伝にはなりました。
鮪の漁業規制問題がもち上がった時、「ウォールストリート・ジャーナル」や「ニューヨークタイムズ」から
取材にきました。それが半ページくらいに載ったんですが、おおよそこんなことを言っているのかナ、って理解
できる程度の英語力です。
Q
これからの「久兵衛」に対してどのようなビジョンをおもちですか。
A
去年別館を作り、お陰様で収容も大きくなり、いろんなお客様に対応できる状態となりました。海外へ進出した
らどうかという話もあるのですが、店舗数を増やしたり、これ以上大きくする必要は感じません。スクラップ・
アンド・ビルドで、どこか潰してその分を建てるということはあるかもしれないけど。これだけあれば十分、と
いうか限度ですね。その分、特化(もしくは差別化)していきたいですね。サービスの質ももっと工夫して、な
おかつ時代の変化を先取りしながら、基本的には昔ながらのものを大切にして、あくまでも幹をしっかりしてい
こうという考えです。
Q
最後に、銀座とはどういうところですか。今田さんから見た銀座の変遷と今後の銀座に寄せる期待などお聞かせ
ください。
A
よく老舗といいますが、古いだけでは名店とはいえない。つまり、いかなる体力でいるか、ということです
よね。最近では本業より不動産業になっている店をみかけますが、本業に全精力をつぎ込んでいないなあ、
という感じがしないでもない。もちろん、不動産展開できることもたいへん素晴らしいこととは思うが、本
業で勝負していない。寂しいですね。
銀座っていうのは一つの大きな星座です。自分の店もその中で光っていたい。お互い光りあいながら、そ
の星座を大きくしていくというか、光る店にすることが銀座のためにもつながる。だから本業を高めるこ
と。下から見て、その輝きが確認できる星でありたい。小さな店でも光を放って、それが全体的に大きな光
になって欲しい。また、なっているはずですよね、銀座っていうのは。
(取材・渡辺利子)
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