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ご挨拶




「銀座15番街」200号を迎える

座談会


特別寄稿




銀座Day&Night

銀座の品格


銀座の今昔


娯楽映画の昭和・銀座と映画の街角




〝銀座らしい〟俳句教室で
「人生百歳時代」を生きよう


立花 藏



 昭和、平成に続く新しい時代を前にして、俳句が再び熱を帯びています。きっかけは、バラエティー番組「プレバト」。中でも、夏井いつきさんの俳句添削が人気を呼び、銀座15番街句会にも入会希望者がやって来るほどです。理由は、「言葉を豊かにしたい」「四季が身近になりそう」「脳活のため」などです。
 15番街の句会は毎月一回開かれていますが、199号で見ると、会員は15人。俳句欄を支える投句者が30人ほどいるので、50人ほどの俳句教室、と言えます。会員間の交流は盛んで、景勝の地に行って俳句をつくる吟行会も行われていますが、15番街句会の一番の特徴を挙げれば、俳句結社とかかわりを持たないという点に尽きます。結社に縛られない、自由で先進的な、〝銀座らしい〟俳句教室なのです。
 本誌の創立50周年記念号は平成28年に発刊されていますが、俳句欄は創刊2年目の第5号(昭和44年)に始まります。この号の掲載句は二十七句で、「春燈」主宰の故安住敦さん(俳人協会会長など歴任)が選句を担当しています。以来、脈々と続き、俳句の隆盛を見守り支えて来たのです。
 私は以前、「俳句朝日」の編集長をしていました。俳句ブーム再来の背景にあるのは、プレバト以上に、「人生百歳時代」だと考えています。この全国的な運動の掛け声は、さらに、「元気に百歳を迎える」を合言葉にしていますから、健康第一はいまや当たり前になりつつあるのでしょう。専門家の話によれば、そのための秘訣は、適度の運動と知的活動をうまく結び付けること、だそうです。
 俳句は、「よく歩き」(吟行)、「よく見」(写生)、「よく考え」(作句)、「よく書く」(筆記)のが基本です。人生百歳時代にかなった趣味・愛好だと私は思います。
 201号からの新しい出発にあたり、俳句を人生の伴侶にしていただければ、こんなにうれしいことはありません。



立花 藏
Profile 1951年、石川県金沢市生まれ。幼い頃より俳句に親しむ。新聞記者を経て、「俳句朝日」編集長。現在は、東京と金沢に加え、東日本大震災のあった三陸などで俳句普及の活動中。




変わる銀座に「あの頃」が残る


本地陽彦



「映画と銀座、その界隈」と題した連載を本誌に書かせて頂いたのは、平成19年3月発行の162号から同28年4月発行の192号まで足かけ10年、その回数も30回にもなる。
 書き始めたときは長期にわたるものになる覚悟もなかったのだが、担当の江波戸編集長が自由に書かせて下さったこともあって、毎回の執筆が楽しく、あっという間に10年が過ぎたように思う。だが、いつまでも巻頭に居座ってはと考えて、その30回を区切りとさせて頂いたのだった。
 私が銀座に初めて来たのは、既に正確な記憶はないものの、父が有楽町時代の朝日新聞の記者だったことから、恐らく昭和30年代の半ばではないだろうか。その後は、高校生になって盛んに映画を見るようになり、毎週のように、そして時には学校をサボッて銀座一帯を歩き回るようになった。私の住む町から私鉄で新宿へ出て、そこから地下鉄の丸の内線に乗り替えて銀座へ出るのが常だった。
 あるとき、「サムライ」という、アラン・ドロンが一匹狼のギャングを演ずるフランス映画の中で、刑事に追われるドロンが、地下鉄を乗り換えながら地下道を自在に逃げ回るのを見て、私もすっかりその気になり、銀座一帯の地下道や、地上からの出入り口を必死に覚えた。
 ネットも無い時代だから、小さな地図帳を片手に、何番の出口から地上に出ると、何ビルの前に出る、とか、地下道をどう歩けば最短で目的地へ行けるか、などとウロツキ回ったのである。
 今、銀座界隈は再開発でその頃の面影も少ないが、地上と地下をつなぐ階段の多くに、何故か必死で覚えた時代の姿が残っている。だから、今でもそうした階段を使うと、あの「サムライ」の場面が甦り、そして、ドロンになった気分をも思い出すのである。



本地陽彦
Profile 日本映画史、日本映画文献史研究家。昭和29年、東京生まれ。多摩芸術学園映画科(現・多摩美術大学)卒業。著書に『日本映画雑誌タイトル総覧』(2003)『原説子「永遠の処女」伝説』(2007)など。



200号 冊子の入手方法