


本地 陽彦
(ほんち・はるひこ)
日本映画史、
日本映画文献史研究家 |
いま、有楽町の駅前にそびえる有楽町センタービル、通称マリオンは、昭和59年10月6日にオープンした。ビルの完成とともに、この建物の中にあわせて五つの映画館もオープン。開場当日には、この五館に終日立ち見が出るほどの三万人もの観客が押し寄せた。この映画館のひとつ、セルジオ・レオーネ監督の大作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でオープンした十一階の東宝系洋画のロードショー館に「日本劇場」という名が付けられた。その後、平成14年3月に改装されて、今日では「日劇PLEX・日劇1」という名前である。
この日本劇場、日劇という名称は、もちろん、マリオンが出来るまで、その地にあった劇場の名前を引き継いでいる。もちろん、と書いたが、この劇場がマリオンに建て替えるために閉鎖されたのは昭和56年のことだから、既に四半世紀も前になる。当然、二十台前半までの若い人たちは、あの旧・日本劇場の建物の実物を眼にしたことは無い、ということになる。
旧・日本劇場(開場の頃の切符に「NIPPON GEKIJO」とあり、「にほんげきじょう」、ではなく「にっぽんげきじょう」が正確のようである)は、今から七十年以上も前、昭和8年の暮れも押し迫った12月24日に、「陸の龍宮」という宣伝文句を用いて開場した。が、開場への道のりは決して順調なものではなかった。そもそも日本劇場の建設計画は昭和3年に始まる。設計は、ニューヨークのロキシー劇場を模して、渡辺仁建築事務所が当った。建物の土地の面積は八百五十坪余りで、昭和4年9月3日に着工した。が、資金的なトラブルから、昭和5年の夏頃に工事はストップ、巨大な鉄骨だけが丸の内の真ん中にさらされた。その骨組みの手前には、完成予想図の大きな看板が掲げられていたが、その完成図のようになるものかは、前を通るものには半信半疑であった。
しかし、ある事情から、工事は再開されて急ピッチで完成へと向かうことになる。映画史家の田中純一郎は『日本映画発達史』の中に、その間のことを次のように記している。「眼につきやすい丸の内の中央に、林のように、立ち並んだ鉄骨は、赤くさびて、見るも無残である。陛下が何かの時、自動車でお通りになって、あれはどういうわけか、と御下問になった。これをきいた重役の一人大川平三郎が、大へん恐縮して、製紙事業で儲かった利益を投げ出し、一気に工事完成を命令した。それが昭和八年三月」のことだという。
完成した建物は、地下三階、地上七階、延べ坪四千七百三十余坪。定員は二千九百二十人で、舞台正面にオーケストラ・ピットを、左右の壁面にはボックス席も備えていた。一階ホール壁面は川島理一郎の図案によるモザイク・タイルによる壁画で装飾された。建物の正面の高さは百尺というから三十メートル余りである。
しかし、建設が順調ではなかったように、開場後の運営もまた曲折があった。旧・日劇のことを記憶している人でも、日劇は東宝が所有していたものと思う人もいるだろうが、建設当時は日本映画劇場という会社のものであった。24日の開場式の後は、「非常時小国民大会」、「国防献金有料試写会」といった、当時の世相を物語る催しが続き、大晦日より川畑文子出演による「踊る1934年」のレビュー、そして「ゴールド・ディガーズ」、「カヴァルケード」の洋画二本で本格的に新春興行をスタートさせた。明けて1月13日には、あのチャップリンの名作「街の灯」も封切られる。が、『陸の龍宮』という立派な雑誌を「チヤツプリン特輯号」として創刊、宣伝につとめても興行成績はさほどではなく、その後も不振が続いて7月には早くも閉鎖されてしまうのである。日本映画劇場は日活との合併を画策するがこれも失敗、そして丸の内のアミューズメント・センター計画を持っていた東京宝塚劇場(後に東宝へと発展する)との間で三ヵ年の賃貸契約を結ぶことになる。
こうして翌昭和10年3月14日から東京宝塚劇場による直営となり、さらにその年の12月1日に吸収合併をして、このとき東宝の傘下となるのである。日劇が大衆の人気を得たのは、東宝の直営となった時に、入場料金を五十銭均一としたことである。これは昭和9年2月に開場した日比谷映画劇場(この映画館も、マリオン開場の一ヶ月後、昭和59年11月に閉館した)が新形式として取り入れたもので、その成功にならったものだった。東宝の傘下となった年の暮れには、地下に日本初のニュース・短編映画専門の第一地下劇場も開場している。翌昭和11年1月は、日劇ダンシングチームの第一回公演を開催、東宝の映画製作への参入と相まって、丸の内地区の映画・演劇文化の発信基地の中核として本格的に歩み始めるのである。
戦後も終戦から三ヶ月後の昭和20年11月22日には早くも再開。同27年3月の日劇ミュージック・ホールの開場、同33年2月には「第一回ウエスタン・カーニバル」を開幕してロカビリー・ブームに火をつけ、NDT(日劇ダンシングチーム)もこの頃には二百名を超えるメンバーにふくらんだ。まさに昭和の芸能、娯楽の隆盛を担う代表的な劇場だったが、老朽化とこの地区の再開発計画から、昭和56年1月28日から2月15日までの「サヨナラ日劇フェスティバル・栄光の半世紀」をもって閉幕、併設の二つの映画館、丸の内東宝はオーストラリア映画「マッドストーン」、日劇文化(かつてのニュース映画館)は鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」を最後に同月22日に、五階にあった日劇ミュージック・ホールも24日限りで閉館した。そして3月11日には解体清祓式なるものが挙行された。
ところで、この日劇、解体以前に一度、激しく破壊されたことがある。私も、それをその日劇の中にいて目撃したのだからたまったものではなかった。戦災? いや、私は戦後生まれである。そう、初代のゴジラ、によってである。「ゴジラ」の第一作は昭和29年11月3日の公開だが、この作品で東京に上陸したゴジラは銀座方面へと向かい、東京中を炎の海としながら、四丁目の服部時計店の時計塔を破壊し、数寄屋橋方面へと向かって、振り回したそのしっぽで日劇も破壊するのである。
昭和54年8月、この日劇で「ゴジラ誕生25周年記念」として「ゴジラ」第一作から以降の東宝の特撮怪獣映画が二十日間にわたって連続上映された。その初日の2日に上映された「ゴジラ」第一作に、私は駆けつけたのである。というのも、私の誕生日が、この「ゴジラ」第一作公開と同じ日なのである。わが人生、ゴジラとともに歩んで来たことになる、とは余談である。
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