●「わんや書店」は、どのようにして始まったのですか。
江戸時代前期は紀州根来の漆器問屋でした。根来は日本で最も古い根来塗漆器の産地で、先祖はお椀を売っていたので屋号が「椀屋(わんや)」です。
後に、大阪に出て蒲鉾屋を経営、江戸中期以降に江戸に出てくるのですが、それまでは東西の流通業をやっていたようです。
幕末に出版がブームとなり、それを機に、出版業に本格的に転向、明治の初めは総合出版社で、仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」の版元でもありました。
寺子屋の教科書や一般の読み物なども出版し、当時の出版の番付で関脇くらいに入っています。
その後ブームは鎮静化して多くの出版社が潰れ、当時から出版業として続いているのは吉川弘文館と丸善とうちだけだそうです。
●なぜ能の専門書を出版するようになったのですか。
能役者は、明治になって大名や幕府などのパトロンを失い、ほとんどが廃業し、一時は散り散りになり絶滅の危機にありました。
西洋化が進む中、日本が外国に見せられるものは『能』だろう、ということで、岩倉具視の声掛けに華族たちが出資して、
明治14年に芝能楽堂を建設、演能を復興させたのです。それで能が一般の人たちでも習えるようになったものの、
テキストである謡本を作る術がなかったのです。
新しい出版のネタに苦労していた曽祖父が、能が盛んな金沢に行ったときに謡本を見つけました。当時の家元と話してそれを出版することになり、
明治二十年代から謡本専門の出版をしています。
●特殊な分野ですが、難しいことは何ですか。
一般に能は観賞するものという認識がありますが、うちは謡や舞を習う人がいなければ商売が成り立ちません。
戦前は財界のトップたちが、お茶やお能など文化的な教養を身につけるのはステータスでしたが、今はそういう風習もなくなり、習う人の数が減少。
謡本の売り上げはこの三、四十年で十分の一になっています。
ただ単純に人口が減っただけでなく、発行から八十年変わらない昭和版の謡本は、和綴じで基本的に痛まないため、新しくお稽古を始める人でも本を購入せず、
百八十部揃ったものを受け継いで使っていたり、コピーして使ったりします。需要が減れば部数も減る。部数が少ないとコストが上がるという悪循環になります。
特に出版はその最たるもので、そういう面では非常に厳しいですね。
●能の見方、その魅力は何ですか。
能は永遠の前衛≠ナすね。六百年前に究極のスタイルを作り上げているので、現代でも古さがどこにもない。 おそらく六百年後も前衛でしょう。
能と他の舞台芸能との違いは、他の演劇や映像は、いろんな場面を視覚的に見せて観客に理解してもらうのですが、三間四方の能の舞台は、
景色といっても後ろに松の木の絵があるだけで幕もない。役者の一言で舞台が九州から京都になるし、うたた寝の一瞬を一時間かけてやるなど、
時間と空間を自由に操っていくのです。
私は映画や演劇の原点は能にあると思います。映画で場面を変えたり、時間を遡ったり、夢の中に入ったりしますが、能はもう六百年前にそれをやっている。
ただ、映像だと場面や登場人物など皆が同じものを見るわけですが、能は同じものを見ても頭の中はそれぞれ違うし、見る側の想像力、理解力が要求される。
能というのはそういう提供の仕方をするのです。
能面は、無表情と言われますが、そうではなく、中間表情といってどんな表情にも受け取れる曖昧な表情でなければいけないのです。
能は知っている人に見せることが前提なので、昔は能を嗜む人たちは、謡や舞を自分でも稽古し、演目の内容もよく知っている。
だから説明的なものを一切排除して簡素化され、難しいのですがそれだからこそ面白いのです。
●今後おやりになりたいことは何ですか。
お稽古事は、世界中を見ても日本にしかない独特のシステムで、なぜ六百年もの間、日本のトップの人たちがお茶やお能というお稽古事を大切にしてきたのでしょうか。
それはそれ自体の楽しみもあるけど、それによって得られる形に表せないものがあるのです。
信長が出陣の前に「敦盛」を舞ったのは、そうすることで気持ちを落ちつかせ、戦闘モードに持っていったのだろうと思います。
同じようにトップの人たちが物事に動じない腹を作る、平常心を保つため、とても有効なメソッドとして謡があります。今の弁護士や教師なども、
多くの人をひきつけ、指令を出すためにボリュームだけでなく通る声、説得力のある声でなければならない。声の力を鍛えるトレーニングとしても謡は有効でしょう。
そして、丹田に力を入れる腹式呼吸は姿勢もよくし、健康法としてもたいへん優れています。
日本は文化レベルが高いのに、今は西洋一辺倒でプロセスを大切にしない結果至上主義になって、どれだけ世の中をだめにしていることでしょう。
だからこそ伝統的な和の文化を見直してほしいですね。
(取材・渡辺 利子)
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