●銀座に中国料理店「銀座
飛雁閣」をお出しになったいきさつをお聞かせください。
私は上海・南京路近く
で生まれ、二十年前の二十一歳の時に就学生として来日し、二十五歳で起業して今に至っています。
初めは六本木駅のすぐそばにある小さなビルを借りて中国料理店を営業していましたが、後にそのビルを買っ
て建て直し、その時から「飛雁閣」という店名で営業を始めました。その後ビルを売却して、2007年に銀座
3丁目のビルを借り、「銀座
飛雁閣」を開店しました。40席程度の隠れ家的な店だったのですがお客様が多くなったので2009年に現在地(銀座8-9-15)に移りました。
今後も価格競争に巻き込まれず、凛としたレストラン経営をし、化学調味料や防腐剤を使用しない、食の安
全・安心、そして味にこだわる新しい中国料理を世界に発信していくつもりです。
●「飛雁閣」という店名はどうしてつけられたのですか。
私の元の名前は呂
飛雁ですので、それで飛雁閣にしたのです。今の名前は帰化するときに、苗字の「呂」と名前の「飛」を取って飛呂にしました。
名前といえば、五、六歳の頃の記憶ですが、ある占い師の方が、私の親にあまりいい名前ではないと言うの
で、何で!
と聞くと、「女の子なのに、飛雁なんて名前をつけたらずっと飛んでいるみたいじゃないですか。女の人というのは何処か止まるところが欲しいでしょ。苦労しますよ」って。そ
れは今でも印象に強く残っています。
●名前通り苦労されましたか。
日本に来て二十年余りになりますが、当時の中国では、学校を出て就職したら一生涯国に保障され、あまり移
動もないという時代でしたので外国に出るなんて非常に珍しいことで、結果として占い通りになりました
(笑)。
でも、水は低いところに流れますが、人間は高いところへ登って行かなければならない、生きているうちは皆
頑張らなければならないですからね。
●
なぜ日本へ来られたのですか。
私は若い頃から少し他の人と変わっていて、生まれた場所しか知らずにそのまま一生を終えるなんて嫌でし
た。
日本語はまったく分からなかったので、本当は英語の喋れるところに行きたかったのです。ところがたまたま
日本に行かないかという話があって、どこへも行かないよりは若いうちにと思い、とにかく大きな世界を知りた
かったし、外の空気に触れ、できれば自分の可能性も試したかったのです。
今の日本の若い人は、どこへでも行けるし、ホームステイもできますが、あの頃の中国はどこへも行けません
でした。外国とはどんなものか、資本主義、民主主義とはどんなものかと興味津々。怖いもの知らずで、トラン
クを二個持ち、大きなリュックを背負って羽田空港に着きました。何かの手違いで迎える人もありませんでした
が、初めからこんな調子だから独立精神が養われたのかも知れませんね。
●日本で困ったことは何でしたか。
困ったことはいっぱいでした(笑)。日本語がわからないので勉強もたいへんでしたが、お風呂にも困りまし
た。
中国にはお風呂という文化がなく、シャワーなのです。日本のお風呂は混浴だと思っていたので、一カ月位は
コインシャワーでしたが、髪が長かったので、要領を得るまではいっぱいお金がかかりました(笑)。
●中国料理のレストランを始められたきっかけは何ですか。
先ず二年間はアルバイトをしながら日本語学校で勉強しました。普通、多くの中国人はある程度したらまた中
国に帰るのですが、私はせっかく日本へ来ているのだから、何かやってみたいと思ったのですね。その時はまだ
漠然としていたので、自分に何が出来るのか考えました。そして、事業がやりたい、と思ったのです。当時、上
海名物の小籠包を食べにいろんなレストランに行っても、美味しいものに出合ったことがなく、正しい味が伝
わっていないのです。もっと本当のもの、美味しいものを伝えたい、それに食品関係なら身近な存在だし、と思
いまして、それでスタートしました。
●レストランだけでなく、点心の食品製造会社も経営されてい
ますが、どうしてですか。また、ご苦労はどんなことでしたか。
食品会社は、レストランの方でお客様が何を求められているかがわかるので、小籠包だけではいけないと、品
目を増やすためにも、飲茶を製造する工場が必要になったことが始まりで、ほぼ同時でした。
困ったのは、まず香港人のコックを雇ってアパートを工場用に借りたんですが、一日目に大家さんから文句を
言われ、契約解除を言い渡されました。香港の人って大きな声で電話をするのですが、何を言っているかわから
ないし、不審に思われたようです(笑)。これが最初の苦労でした。
その後、業績は徐々に伸びていますが、赤字は何年も続いて、今年こそ駄目だったらやめようかというのが何
回かありました。仕入れや賃金、家賃も支払わなければならない。もちろん自分の給料なんかありません。それ
でも苦しくて我慢、我慢の毎日でしたが、一社、大きい取引先に出会い、こちらの理想を理解していただき、全
国販売が始まってやっと報われました。
最近では、銀座の店長に予定していた妹が、開店前に上海に帰ってしまったのには困りました。現在のスタッ
フは血縁関係が全く無いのですが、毎日皆で自主的に努力しています。店に立ち寄った時、そんなスタッフが笑顔で迎えて
くれるときは嬉しいですね。
●これからの経営に対してどのようなビジョンをお持ちです
か。
私たちはまだまだ勉強不足です。料理・ワイン・接客・雰囲気作りなど、相当な努力をしていかなければなり
ません。Belle
Epoqueのシャンパーニュを中心に、ソムリエが頑張ってくれているので、本社としては松坂・伊勢・淡路・吉浜・沖縄などに足を伸ばし、料理の素材を集めて化学調味料無
しの料理に、もっともっと挑戦していきます。
●典型的な一日のスケジュールを教えてください。
朝はゆっくり起きて猫(アメリカン・ショートヘア二匹)の世話をして食事、といっても、朝食の支度は夫が
してくれますので、後は洗濯機を回してから車で本社に出ます。
私の仕事は各部門調整の他、輸入業務と財務だけです。夜は半分は外食ですね。週に二、三回、合気道の稽古
に行っています。今は茶帯ですが、来年中には黒帯になれるよう頑張っています。帰宅後は長めにバスタブに浸
かり、猫に夜食を食べさせてから、寝るまで読書かDVD鑑賞をしています。
●上海時代の思い出は何ですか。
卓球や上海蟹の食べ方など、父から厳しく教えられたのを思い出しますね。子どもの頃は苦労した方だと思い
ます。
高校からは全寮制で、いまだにその時の友人と交遊があります。上海人にとって、この二十年は政治・経済と
も激烈な時代でした。皆さまざまな道をたどり、夢のようなオカネモチになった友人や、地道に母親をやってい
る友人、僧侶になった友人など、いろいろです。
●現在仕事以外で楽しみにしていること、また、悩みなどおあ
りですか。
仕事が終わって家に帰ると、猫たちが待っていてくれるのが大きな癒しになっていますね。猫たちには、ある
ときは母親として、またあるときは友人として接しています。彼らのために、年間旅行日数が三分の一に減りま
した。年に六、七回、上海に戻る以外、仕事も兼ねて台湾の高雄に三、四回、ヨーロッパ等へは二、三回旅行し
ていますが、猫のために国内での外泊は避けています。
ビジネス上では、小籠包や春巻などの中華点心を東京で手作りしている専門メーカーですが、調味料や紹興酒
なども輸入していて、このシステムがうまく稼働してから悩みはありません。
●日本では何が気になりますか。
食べるのに苦労しているわけではないのに、食べ放題だとか、スーパーで詰め放題というところに走る店があ
るのは理解に苦しみます。人の胃袋の大きさなんてたいしたことはないのに、安いものや、量の多いものに走っ
て何が楽しいですか? 食べるのに困っているなら何も言いませんが、化学調味料をいっぱい入れた人工的な美
味しさではなく、何が健康にいいものかをわかって、美味しいものを少しずつ食べて、人生を楽しんでいただき
たいです。
もちろん、まだ時間はかかるでしょうが、これからの中国もそうなってくると思います。その意味では、私も
食品業界にいる限りは皆様の健康と美容に携わっていきたいですね。
●銀座とはどういうところですか。また、今後の銀座にどんな
期待をお持ちですか。
銀座の「食」の多様性と平均水準は世界一でしょう。ホンモノのお客様が集まる場所でもありますが、歴史が
足りません。海外の都市と比べても活力も落ち着きも欠けている気がします。おそらく、進歩・発展が速すぎ
て、寄せ集めの進化になっているのでしょう。店舗が各々で作った歴史と風格があってこその銀座全体の繁栄だ
と思います。その点は大阪・京都ですね。私たちも努力して銀座らしいクオリティで生き残っていくことができ
たら有り難いことです。もちろん、外国の街であっても百年以上営業しているホテルやレストランには憧れま
す。
ともかく、中国からの団体旅行者をあてにするような商売は銀座らしくありません。背筋を伸ばして、品位の
高い接客をしたいと思います。
私事になりますが、昨年お目にかかったブルガリ(BVLGARI)のNさんはとても素敵です。あんな素晴
らしい方がいらっしゃるのもまた銀座なのですね。
(取材・渡辺 利子)
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