会員インタビュー「銀座 このひと」VOL.14   銀座を 愛して銀座で闘う   



草野 佳里子  
Kusano Kariko
(株) 銀座平野園
  取締役社長


銀座 で働く方々にお話を伺う 「銀座 このひと」

明 治16(1883)年創業のお茶の老舗、「銀座平野園」の六代目として頑張る草野 佳里子さん。今年、旧店舗がビルに建て替えになり、本来のお茶業に加え、新店舗を ミニサロンにして銀座の人々に「癒しの空間」を提供。さらに世界中にお茶屋の文化 を発信しようと、インターネット放送も開始した。老舗の古くて良いものを守りなが らも、銀座の未来を見すえて新しいあり方を意欲的に模索し続けている。

「銀 座平野園」インターネット放送(http://ustre.am/iTTI)?
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 ど ういういきさつでお茶を商う銀座の老舗に嫁いでいらしたのですか。

  主人と私は泰明小学校の同級生で、1年生から6年生までずっと同じクラスだったんです。当時から主人の母 (先々代の草野智恵)が切り盛りしている店に、私たち級友は学校の帰りによくここへ遊びに来ていました。
  その後は、それぞれ別の道を歩みましたが、よくあるパターンで、同窓会で一緒に幹事をやり、それがきっかけで気がついたら嫁に来ていました。

  結婚前は何をなさっていましたか。

  父は自分で作った人形を動かしてアニメーション映画を作る映画監督、母はプロデューサーという家に生まれま した。大学を出た後、父の会社に入ってその技術を勉強し、スタジオの仕事をたくさんしました。バブルの始ま りの頃で、営業も勉強してきなさい、ということで、電通や博報堂、NHKなどへ一人で出向、日活芸術学院で 講師をしたこともあります。
 子どもの頃から両親が外国で仕事をすることが多く、サザエさんのような平凡な家庭に憧れていましたが、気 がつくと自分もバリバリ仕事をしているような環境に置かれていました(笑)。
 バブルが崩壊した後、英語科の教員試験を受け、合格しました。父の仕事柄海外に縁があって、子どもの頃か ら自宅には海外からのお客様も多く、英語が好きでした。歌と踊りは電通時代にカラオケで鍛えられ(笑)、以 後15年間、この店の跡を継ぐまで歌って踊れる英語科の教員をやっていました。

ゲスト写真  嫁いだことで、変わったこと、また変わらなかったことはどんなことですか。

  いちばん大きいことは、御神輿が好きになったことですね。嫁ぐまではあまり下町的なことに興味がなく、集団 で何かするというのは苦手だったんですけど、嫁いでからは、主人の影響もありますが町会で働く側になり、地 域の中でみんなで協力したり、お互いを尊重しあって共存するといったことを学びました。御神輿やお祭りとい うのはその典型ですね。気がつくと歌舞伎座の前で御神輿を担いでいる自分がいました(笑)。
私は古いもの変わらないものが好きなんですが、自分がお茶屋に嫁いできて、古いものだけにしがみついている と浦島太郎みたいになってしまうんだなと実感して、老舗の古くて良いものは守りながら、新しいことには挑戦 しようと考えるようになりました。周りの反発もあったのですが、やっぱりこの五年十年を振り返ると、自分が この店を継いでから、あのままの形で続けていたらここまで維持できたかどうか……。
 変わらなかったことは、銀座を愛していること。そこは変わらない。ずっと昔から銀座が大好きで、正義感が 強いので、「銀座の街は私が守るぞ!」くらいの勢いです(笑)。

  現在の生活やお仕事はどのようになさっていますか。

  以前「たくみ」の社長の志賀さん(銀座15番街前会長)から、銀座は職人文化が残っている街であり、なおか つそれに固執しないで新しいものを受け入れる街。それらが共存していかなければいけないと教えていただきま した。「銀座は世界の窓だからね」って。それもあって、最近は銀座が秋葉原と比べられたりしますが、やっぱ り銀座は世界の銀座なんだと感じることが多いです。
 私も少し余裕が出てきたのか、銀座だけじゃなく世界に目が向いてきたんです。
去年、父の仕事のお陰で世界を見る機会があったのですが、中国へ行った時に上海の喫茶店で抹茶を飲んでいる 若者をたくさん見ました。中国に日本のお茶があれだけ入っているのはちょっとカルチャーショックでした。日 本のお茶も世界に受け入れられている。そういう意味では、イタリアのカプリ島でカフェをやっている日本人女 性のところへ平野園のお茶が届けばいいというアイディアが浮かび、抹茶の輸出に力を入れようと、今、輸出の 準備をしているところです。 
 今年 の5月に旧店舗がビルに建て替えになり、新装開店されて何か変わりましたか。

ゲスト写真  日本茶・抹茶の専門店として今まではそれに固執し、あえて中国茶は入れないとか、ある種頑固なところがあり ました。でも、環境も変わったし、いらっしゃるお客様も観光客や、特に海外からのお客様も増えてきた上、自 分も世界を見るようになってお茶への許容範囲が拡がりました。今後は創業128年というキャリアを活かし て、新しいお茶にも満足していただけるように、お取り寄せなど、お客様のご要望にもお応えしていこうと思っ ています。
 新店舗にしてからは、ゆっくりとお客様と向き合って語り合うことができるようになりました。お茶の話から 音楽の話になり、音楽から映画鑑賞の話になったりと、お店は狭いけれど、話は限りなく拡がっていくんです。 非常に文化的で茶箱がいっぱいなミニサロンになっているのが嬉しいですね。
それと、せっかく銀座なので、今までの形ではなく、インターナショナルなカフェをできればと。もちろん、日 本茶・抹茶は譲れないんですけど、プラス・アルファで。
今はホームページ一つにしても日本語・英語・中国語と対応できないと可能性が減ってしまうんですね。うちは 英語や中国語ができるスタッフもいるので、今後はインターナショナルなものを目指しながら、サロン的なもの を大切にしていきたいと思っています。
 また、若い人達の視線も必要だし、世界中にお茶屋の文化を発信しよう、やってみなくてはということで、こ こで放送局を始めました。毎週水曜日午後6時からサロンの延長でインターネット放送をしています。まだまだ 未知な部分なのですが、このビルになってそれを始めたということも一歩新しい前進になりました。

  ご趣味や楽しみになさっていることはおありですか。

 読書と か、映画鑑賞が大好きなんです。推理小説は昔から大好きで、読むだけじゃなく書いています。それがいつの間 にか恋愛小説みたいになって、しかもエンドレスなんです(笑)。
 それに自然が大好きで、日本の山奥の秘湯や海外の氷河、岩探しの旅に出たり……。やはり自分が何かを発見 しようという気持ちを持ち続けないと。それが私の元気の源になっています。
 楽しみは、娘と息子の成長で、支えになっています。教員採用試験は子どもが生まれてから受けたのですが、 試験の一つに体力を試す縄跳びがあって、若い受験生の中でいちばん最後まで飛べたんです。その時は子どもの 顔が目の前に浮かんで、「この子のために飛ぶぞ!」って。そのくらい支えになりました。

ゲスト写真  銀座で生きるというのはどういうことですか。

  闘いが半分です。守るためと進むための闘い。甘えん坊で意志の弱いところがあるので自分とも闘わなければい けない。たまには主人とも夫婦喧嘩で闘わなければいけないし。でも、闘う分、人に助けて頂いた時の嬉しさと いうか、自分が苦しいときは有難く感じるし、そのギリギリのところにいるのが居心地いいというか、へんに安 定してしまうと私らしくなくなる。このビルに建て替える時、経済的にも精神的にもすごくプレッシャーがかか り、店をやめたら楽になるかなと、一瞬頭をよぎらなかったといえばウソになりますが、やっぱり子どもたちも いるし頑張ろうと、あえて税金地獄に入っていくというか(笑)。
 ただ、そうやって自分が苦労して初めて、先代もこれを切り抜けたんだな、これを乗り越えたらやっと一人前 で、先代もお墓の中で拍手してくれているかなって。銀座にお店を構え、それを守っていくのはたいへんで、土 地の値段も半端じゃなくて税金も高いのですが、私はずっとここに住んでいたいから頑張りたいと思います。
あとの半分はやはり新旧のバランスを取りながら、銀座の文化を維持・発展させること。今までは銀座にしがみ ついていたんですが、生誕五十周年を過ぎると銀座の発展に寄与したいというか、自分が何かできることでご恩 返しをしたいです。

  これからの銀座にどんなことを期待されますか。

「いつまでも世界の窓として、やっぱり銀座だね」って言われたいです。
銀座の御神輿や盆踊り、東をどりの伝統や柳の歴史など、私たちにとって当たり前の銀座の文化を守り続けてい くことは大事でたいへんだけど、それがあるからこそ銀座なんだなと思います。
 商売をするにあたって守るべきものがピシッとあるのが銀座のスタイル。銀座には日本中からいろんな文化が 入ってきているし、海外からもいろんな会社や観光客が入ってきます。その中で自分が何をやりたいか、しっか り持ってないとグジャグジャになってしまう。私自身もお茶屋の 女将なんだか小説家もどきなんだかわからない、なんてなってはいけないので、その線だけはきちんと引い て努力していきます。

(取材・渡辺 利子)

 

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