Q 創業105年、不動産業一筋にやってこられましたが、どのようにして始
まったのですか。
A 不動産
業として東京でも二番目くらいに古いそうです。明治維新の後、初代・朔次郎が明治初年、出身地の金沢から漆
塗りで紋入りの大きいつづらを背負って上京してきたと、義父(二代目・源太郎)から聞いています。
初代は上京後、銀座の旅館・水明館で下働きしながら、地方から泊まりがけで仕事や歌舞伎座へいらっしゃる
お客様方から、家を探して下さいと頼まれるようになって、それがそもそもこの仕事の始まりだったようです。
このつづらは創業者の遺した物ということで、我が家の家宝として大切にしています。それと、都内一円の昭
和7年度版の「公図」ですね。これは朔次郎が携わった東京市内の関東大震災(大正12年)復興後の区画整理
図が本になっていて、二度と作れないものですね。
Q この場
所で創業なさったのですか。
A
明治38年に創業した当時は木挽町10丁目に所帯を構えていました。その後、関東大震災後の区画整理により
現在の場所(銀座8丁目)に移り、それ以来ずっとここに住み商っています。今はビル(平成21年7月竣工)
になりましたが、前の家で生まれた主人(三代目・邦忠)が跡を継ぎ、平成15年に亡くなったときもここから
旅立ちました。お客様が何かご用のときや、ちょっと不審な音がするというと、すぐに飛んで行けるよう職住一
緒で、主人はずっとここに住んでいたのです。跡継ぎにとっては離れられない場所なんですね。
そんな訳で、私も嫁いで50年、ここに住んでいますから、もう根っこが生えて、苔が生えて(笑)。
Q 会長
は、どちらのご出身ですか。嫁がれたいきさつなどお聞かせ下さい。
A 生まれ
は中野です。父は浅草で代々の江戸っ子です。私が初めて銀座に来たのは、戦後、学生時代にお友達と遊びに来
たんですが、卒業後、8丁目にある貿易会社に勤めました。その頃、同じ建物に歯医者さんがあって、主人が治
療に来ていたんですって。私は知りませんでしたが。その後、アルピナグループのスキー教室に入ったのです
が、主人もたまたま入ってきて、夏山だ何だってグループ交際をするうちにね。でも戦後のことですから、嫁ぐ
時に義父が、身一つでいいんだよって言ってくれて、お陰様で現在も何不自由なくしてもらっています。結婚後
は4人の娘に恵まれました。主人からは、「うちは女ばかりだからなあ」って言われていましたけれど(笑)。
Q 銀座に
住まわれて長いんですね。
A そうで
すね。ですから泰明小学校も三代目です。義父も主人も泰明で、子供たちも泰明ですもの。娘4人、ずらっと
行っていましたからね。ですから、未だに入学式や卒業式というとご案内状を頂きます。主人がPTA会長を
やっていたこともあり、町会の代表ということでいつも参加させて頂いています。この前も運動会に行ってきま
したが、うちの子供たちが教わっていた時の先生もいらっしゃるんですよ。「あら、先生!」なんてね。
また、月1回、子供たちのお母様方と一緒に四方山話をしながらお食事をする会があって、もう四十数年続い
ています。
Q
現在、「小寺商店」の会長として頑張っていらっしゃいますが、初めからお仕事をおやりなっていたのですか。
A 私は会
社のことはしなくていいということで嫁いでまいりましたので、ずっと裏方で、子育て、家事全般、主婦をして
いました。
もちろん、会社のことは、職住一緒だから朝から夜まで年中主人と一緒で、耳に入ってくることだけを黙って
聞いていました。出過ぎず引っ込み過ぎず、というのかしら、そういう感じでやってきましたから、突然仕事一
筋の主人が亡くなった時は、会社のことはあまりよく知らなかったのです。
そんなわけで、分からないことは昔からいる番頭さんに教えてもらいながらやってきました。そしてたまたま現
社長(次女の婿、四代目・児玉裕)が当社に入っていましたから、割とすんなりと継いでくれて、その点では感
謝しなければいけないですね。四代目の後継者ができて、五代目にあたる男の子が二人います。まあ、どうなり
ますか、あまり期待しすぎてもいけませんが。
Q 毎日は
どのような生活ですか。
A 新ビル
ができましたが、まだ引っ越しがすんでいないので、現在は別の住まいから8時頃出社します。すぐにでも銀座
に戻りたいんですが、前の家は七十数年も住んでいたので物がいっぱいあって、今はその整理に追われていま
す。
Q これま
での出来事で、印象に残っているのはどんなことですか。
A 悲し
かった、と言いますか、残念だったことは、私が嫁いで3年目に、義弟と義妹を二人残して義母が54歳で亡く
なったことです。義母はとてもできた方で、しつけがきちんとした家のお嬢様だったせいか、礼儀正しく、嫁の
私に対しても両手をついてご挨拶なさる方でした。まだまだ教えてもらわなければならないこともありましたし
ね。でも、家事などは見よう見真似でなんとかなりました。
印象に残っているのは、母親代わりといいますか、義弟のお見合いのときはお腹が大きかったんですが、義父
と一緒に立ち会ったことなどでしょうか。そして翌々日に出産! それが二番目の娘で、現社長の家内です
(笑)。
ほんとうにいろいろありましたが、終わってみればすべて楽しかったことです。人生終わるときは、「楽し
かった、ありがとう」って言えると思います。
Q 50年
住み続けていらっしゃる銀座はどういうところですか。
A ご近所
に恵まれました。以前は向かいが「ちた和」さんで、呉服の展示会に行ったりすると、番頭さんが着物を見立て
てくれたりしていました。「ぜん屋」さんのお父様(先代の川口善也氏)も、義父と仲良しで、戦争中も灯火管
制の中、明かりが漏れないようにしてこっそりゲームを楽しんでいたということです。
今も昔も、銀座という街そのものが居心地のいい街なんです。銀座に50年も住んでいると、街を歩いていて
も、「あらっ!」って、いろんな方にお会いするし、お店の中から「お茶飲む時間ある」とか、「今日は大丈夫
よ、食事する?」なんて声がかかる時もあります。また、「今日は疲れてるんじゃない?」とか、顔見て気遣っ
て下さるのも嬉しいですね。そんなふうに、お互い元気なのを確認し合いながら、街中を歩けるのが私の楽しみ
で、理想とする生活です。
それに、本を読んだりすると、『年を取ったら銀座に住もう』とかいう記事を目にしますが、私は実践してる
わ! って感じです。銀座って歩くだけで目を楽しませてくれるし、寂しくないし。買うってことより、こんな
のは似合うかしらとか、想像しながら歩けます。皆さんはおしゃれして銀座にいらっしゃるけど、私なんか前
掛けを外してパッと出かけます。ある時、お祭りの赤い草履を履いてデパートへ行ったら、顔見知りの店員さん
が、「あら、かわいい!」って。
Q 今の時
代、たいへんだと思うことや、ストレスを感じることなどおありですか。楽しみになさっていることやご趣味は
何ですか。
A たいへ
んと思えば何でもたいへん。そうなるとたいへんが広がる。だからそう思わないようにすればいいんです。たい
へんな時はそっとしていればいい。無理さえしなければ、ちゃんと生きていけるものです。
ストレスが溜まりそうな時は大きなボールを転がしに行きます(笑)。日本ボーリング協会の年配者の番付で
「関脇」になりました。横綱は百歳近いお婆さん。元気でお仲間があって、楽しく過ごして自分の健康を作って
いかなくてはいけませんよね。
それと旅行が好きで、声をかけて下さる同世代のグループに入れていただいて、エジプトに行ったり、中国の
長江を船旅したりしています。今年は5月にモスクワとペテルスブルグへ行って、バレエを見てきました。
Q 最後
に、次の世代に伝えたいことはどんなことですか。
A
創業から100年かかりましたが、本社ビルができて、本当に有り難く思っています。いずれご先祖様に報
告に上がります。以前から話があり、主人はそろそろビルをと言って図面もできていましたが、その機に非
ずということで、現在に至りました。
それにしても、ここまでこられたのは、お客様とコツコツと頑張って下さったご先祖様や社員の皆さん方
がお陰です。この仕事は信用あってのこと。ですから、これからも社是を大切に守って、世のため人のため
になる仕事をし続けてもらいたいと思っています。今は100年に 一度しかない不況と言われています
が、必ずいいこともあるんですから、その間しっかり勉強しておくこと。いつまでも悪いってことはありま
せんからね。
(取材・渡辺 利子)
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