■銀座15番街に寄せて■

169号の会員インタビュー「平つか」を読まれた、名古屋市の加藤光恵様

―今はありませんが、名古屋の名鉄百貨店に銀座街がありました。そこへ平つかさんが店を出してをられ、近くに住んでいましたので、よく行かせて貰いました。平つかさんの物をたくさん持っています。姿見・人形ケース、いくつか抽出しのついた小たんす、銘々皿、書いたらきりがありません。中でもお雛様は二人だけのと段飾りと二つ求めました。段飾りは高さ24cm、横24・5cmのケースに収まっています。小さいです。内裏様の高さは3cm程、五人ばやしや官女達は2.5cm、十三枚の敷板にのせて飾っています。木目込みの素敵なのです。もう作る人がないときいています。あの頃でも値段は忘れましたが高価でした。今ならいくらするでしょうか。本当に良い物を売ってをりました。毎年必ず飾ってをります。
                             銀座の街と私                銀座15番街 読者 田中 ますみさん 
ゲスト写真
 銀座は、今日も優しい顔で、街に訪れる人々を迎えてくれています。
 銀座に関するイメージは、優しさ・穏やかと言う言葉が私には、あてはまっているように思えるのです。
 しかし、最近では、外観がデザイン性に富んだビルが立ち並び、街並みも時代の流れと共に変化しつつあります。でも、表通りから裏通りに歩を進めて行くと、昔と同じような銀座の風情が残っていて、そこから、商いの様子が伝わり、安堵を覚えます。美しく、機能性を持ったビルも素敵なのですが、銀座の風情を残した街並みも、疲れた心を癒してくれます。そして、温かく人を迎えてくれ、明日への活力を与えてくれます。
 なぜならば、私が幼き頃、両親に連れられて銀座に遊びに来ると、優しい笑みに溢れた大人達の姿が、何時までも、瞳の奥の記憶となって残っています。
 私は、親子三代東京生まれ、東京育ちです。現在70代の母が、結婚前に銀座のデパートに勤めていた事もあり、銀座とは縁がありました。家も近いので、幼き頃は、休日になると銀座の街を散策し、デパートの屋上で遊び、食堂でお子様ランチを食べ、ケーキを買って帰るのです。そして、銀座に来る時は、白衿の付いた紺のワンピースと、手には小さなバスケットを持ってくるのです。子供心に、何故、銀座に来る時は、洒落たワンピースを着なくてはいけないのか不思議でしたが、その答えが出るまで、沢山の時間は必要なかったように記憶しています。
 子供心にも、街中の大人達の姿も、きちんとした身仕度で、優しさに溢れた笑みで歩いている姿が、幼い私の心の奥底に、憧れとなって映し出されていったのだと思います。
 言葉遣い、微笑み、何よりも、人に接する時の穏やかで温かい言葉、銀座の街を好きになったのも、これらが理由だったように思えるのです。今考えてみても、子供は、大人の行動を良く観察しています。良い所を手本にしながら、憧れの大人へと近づいて行くのかもしれません。
 今現在、様々な悩み事を抱えた時にでも、銀座を歩いてみると心が癒され、明日への活力を、私に与えてくれています。
 悲しい事・楽しい事も、全部受けとめてくれる心優しい街。
 最近では、銀座へアクセスも良くなり、今まで以上に多くの人々が行き交う街になりました。これからも、初めて銀座を訪れた人でも、幾度も訪れたいと思う、そのような街に、ますます発展して、そして、一人一人が温かみと、思いやりを持ち、何よりも、この街に愛着を持ち、優しさと情熱を忘れない、これからも銀座にエールを送りながら、人々が楽しく行き交う街である事を願っています。
 今日も、銀座の街が旅人を、優しく包み込んでくれる事でしょう。


「銀座の嫁日誌」を読まれた方が、その嫁に一文を寄せて下さった。ご紹介したい。

―― 初めまして。
 ホテルオークラの「聴松庵」のご縁で三十年ほど前に貴店を知りました。〔※ 編集部(注)「聴松庵」には、平野園の先代が抹茶を納品していたが、嫁の義祖父、草野話一と元々友人の間柄だった〕
 昨日「和光」を少々頂きに参った折『銀座15番街』を頂戴した者です。早速一回目から拝読させていただきました。
 たいへん篤実にして率直な記述に、貴店にあらためて親近感を覚えました。毎回テーマがどっしりと据ゑられてゐると、読んで頭に入り易く、読後感は爽快です。今後のご健筆をお祈りします。
 興趣あふれるお店が利発なお嫁さんを得て弥増のご発展ぶりに敬服いたします。――  (中略)

そして、後日、編集部にも寄せられた。


     「江戸の粋 繋ぎ伝へる 15番街」     
元「週間読売」編集長 田口 武雄さん

「素敵なお帽子ですね」
 その一言で立ち止まりました。銀座平野園で抹茶を買ひ、帰りかけたときです。
 買ひ物をしていて、「ありがたうございました」「またお越しください」以外に、あまり余計な声をかけられた験しがありません。商人ことばではない温かさのやうなものを感じました。
 その折、『銀座15番街』の近刊3冊を頂戴しました。
 表紙は、それぞれ勝鬨橋、永代橋、清洲橋の叙情的な版画。編集も銀座の今昔、地域情報、直面する問題など多彩で、特に30年来(毎度少々づつながら)抹茶「和光」を賞味させてもらってゐる銀座平野園・草野佳里子さんの「銀座の嫁日誌」は、銀座から銀座へ、老舗に嫁いで以来の喜びやご苦労を綴られてゐて、興趣深く拝読しました。
 よく言はれることですが、銀座のど真ん中から大衆迎合の風潮と外国資本の波に揺さぶられつつある(らしい)いま、7・8丁目とその周辺の存在意義は、「銀座の文化」を守り育てる意味で、いよいよ高まってゐると思ひます。
 御誌『銀座15番街』が、「街を愛し、愉しみ、誇りを持つ」皆さんの精神的バックボーンとして末永く機能することを願ってゐます。 (表記、原文のまま)

                 『私の銀座ライフ』                福岡県 永島 淑子
ゲスト 私の住む、神社裏の玄界灘は、赤海亀が産卵に上陸する、澄んだ海と美しい海岸線をしている名勝の浜です。周辺は緑豊かな水田や畑が広がり、花や農産物を求めて多勢の人が来ます。カリフラワーでは、日本一になった年も有り、NHKの桜井洋子アナウンサーが取材に来たりする所です。
 その地から、「銀座15番街」主催の食味会に出席を兼ねて上京、憧れの銀座でワクワクしながら、月に一度散策を楽しんでいる。
 昭和34年、高三の夏休みに東京在住の祖父から、振り袖にするか、東京見物が良いか打診があって、一ヶ月祖父と遊び歩く事にしました。祖父は六尺豊かな人で、ヘンリー・フォンダの様でした。福岡県・宗像出身の洋画家で芸術院会員の中村研一・琢二兄弟と近い親戚で、子供の時、当地玄界灘の勝浦浜で過ごしたり、六代目菊五郎丈宅へも、祖父は出入りしていました。
 私が帰福する前日に「どこか行きたい所は無いのかね」と聞かれたので、「歌舞伎が見たかった」と答えると「なぜ早く言わないのか、今からすぐ出かけよう」
 早速、歌舞伎座に着くと、「永島です。支配人を!」と告げると、支配人がネクタイを結びながら、足早に降りてきて「先生、今日はどうされたのですか」と「孫が観たいと言うので、済まないねぇー一幕で良いからたのむ」この後、松竹系を五ヶ所手配して下さり、急いで観て回った。祖父は「僕も捨てたものではないだろう」と得意気に笑った。
 学生の頃、山手線で上野から渋谷迄、通学路なのに、銀ブラをしたくて、わざ々地下鉄銀座線に乗ったものです。散策はするが、ひたすらに観るのみで買えない。貧乏学生でしたから。将来一人前になったら、英國屋の服を着たいとか、あそこでフラン
ス料理を食べようとか、色々に思い巡らせる事ばかりであった。日本橋に勤めていた頃もあります。まだ々希望通りには成らない財布の中身でした。
 四十年後、やっと念願成就しました。「銀座15番街の食味会」に、二年前、木村前編集長の紹介で入会してより、現在編
集を担当している江波戸さんが、九州から出席する私に何かと便宜を計って御連絡下さり、毎回参加、銀座での食事、買物等、二泊三日の銀座ライフを楽しんでいます。
 銀座との接点が繋がったのも食味会の御陰。並木通りの英國屋でスーツを購入、七丁目田屋で靴、ぜん屋で傘、銀座風月堂でお茶を飲み、金春通りのノーブルパールで美しくなって、夕刻には、海猫で知的な会話を楽しみながら一杯飲む。
 英気を養い、十分な充電をして再訪を祈りつゝ帰途につきます。

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